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江戸の医者

江戸時代の病

江戸時代の病は、疫病、疝気、癪、食傷、腫病の五つに分類されていた。疫病は、伝染性の熱病をいい、麻疹、痘瘡(天然痘ともいう)、コレラ(コロリともいう)などが流行した。疝気は胸の痛み、癪は腹部の痛みをいい、食傷は食あたりなど、腫病は皮膚のでき物や内臓が肥大する病をいった。このほか、血の道と呼ばれる婦人科の病気や、外科が処方するけがなどがある。

医者

「くすし」とも言う。日本の医術は江戸初期に至って急速に進展した。それまでの医術に代わり、曲直瀬道三(まなせどうさん)により中国からの新医学がもたらされた。それまで秘伝の術であったものが、折からの印刷術の進歩にともない、大量の医学書の出版とともに発展していった。朝廷には御典医師も伝統的にいたが、曲直瀬道三らは幕府の信頼を得て重用された。医者には、幕府奥向きの奥医師と市中の町医師がおり、江戸後期には蘭方医なども活躍した。

奥医師は江戸城中奥に勤務し、将軍の脈を測った。奥医師にも種々あり、薬を調合して診療を進める御匙(おさじ)を筆頭に、各専門医・奥医見習・奥医並などがいた。その他、寄合医師・御目見医師などもおり、多くの種類があった。徳川秀忠の時、元和九年(一六二三)に『大奥法度』が出されて奥話の医師が任命され、曲直瀬玄朔・曲直瀬玄鑑らが入った。後世の綱吉の時代に至って、奥医師の名称は定着した。

町医師

市中で診療を行った町医師には、とくに資格はいらなかった。むしろ、江戸初期の医者は剃髪・法体の僧侶姿であり、みすぼらしい者もいた。仮名書きの医学書を読んだだけで、糊口(ここう)のために医者となるものもいた。また、儒医と称する儒学と医学を兼ね備えた文人も多かった。さすがに元禄(一六八八~一七〇四)以後ともなると、優れた医者は仕官したり、町中でも重きを置かれて富裕な階層となっていく者もいた。各藩中においても御典医を置き、藩医から幕府奥医師となる者も現れてきた。



蘭方医

西説内科撰要
西説内科撰要

蘭方医は、江戸の町では当然停滞していたが、明和8年(1771)、杉田玄白が骨ヶ原(小塚原)刑場で女体の腑分けを観察し、前野良沢らとともに『ターヘル=アナトミア』の翻訳に従事した。苦心の末にこれを完成させ、安永2年(1773)に『解体約図』として刊行したことから、俄然注目を浴びた。以後、津山藩医・宇田川玄随がオランダの内科書を翻訳し『西説内科撰要』として出版するなど、多くの西洋医学書が翻訳され、蘭方医も次第に増えていき、その後、幕府も安政五年(一八五八)には、奥医師として蘭方医の採用に踏み切った。一方、伝統的医師養成機関としての医学館も設立され、多紀家一門によって多くの医師が養成された。

文政六年(一八二三)、来日したドイツ人医師のフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、長崎郊外の鳴滝に鳴滝塾を開き、西洋の臨床医学教育を施した。蘭学者・緒方洪庵は、大坂に適塾を開き、三〇〇〇人を超える門弟にオランダ語や医学を教えた。天保年間(一八三〇~四四)にはメスやピンセットやハサミなどさまざまな外科道具が売り出されており、幕末には、農村にも蘭方医がいることが珍しくなかった。

漢方医

中国医学の影響下に発達した日本独自の医学。七世紀以降、遣隋使や遣唐使により中国大陸から多くの文物とともに中国医学がもたらされた。永観二年(九八四)に成立した『医心方』三〇巻は、漢から唐に至る多数の医学書の引用で、日本最古の医学書である。

一五世紀に明に留学した田代三書は、中国・金元時代(一一一五~一三六七)に発展した金元医学を日本にもたらし、その弟子・曲直瀬道三は日本独自の発展をもたらした。二代目・道三となる曲直瀬玄朔の著書『医学天正記』には、実際に行った診療を疾患別にまとめ、症状や処方例を書いたもので、正親町天皇をはじめとする皇族・公家・大名・庶民などさまざまな階層の患者の実名が記されている。

一七世紀中ごろには、古方派が起こり、停滞していた漢方医学の革新をめざした。日本で最初に人体解剖を行った山脇東洋は古方派で、世界で初めて全身麻酔をして乳がん摘出手術をした花岡青洲も古方派の門弟である。

一八世紀後半には蘭方が次第に影響力を増すが、華岡は漢蘭折衷を唱え、蘭方医・宇田川玄随の『西説内科撰要』にも医学館の漢方医・多紀元簡が序を寄せているように、漢方が優位に立っていた。しかし、一九世紀になると蘭方が主流となり、明治政府は西洋医学を修めることを医師免許の条件とした。

鍼医

安上桃山時代(一五六八~一六〇三)に明国から撚鍼法(ねんしんほう)が伝えられ、吉田流、入江流、御薗流などの流派が立った。日本で考案された、鍼管を使って指先で軽くたたきながら細い鍼を刺していく管鍼法に対して、撚鍼法は鍼管を使わずに、鍼を直接肌に置いて静かに刺していくもの

三代将軍・家光のとき、山川城管という検校(けんぎょう)(盲人の位)が家光の治療にあたって恩遇されており、盲人が鍼医となっていることが知られる。入江流の杉山和一は、幼時に失明しており、従来の打鍼や撚鍼よりも、盲人にとって施術の容易な管鍼の療法で大成した。また杉山は、四代将軍・家綱、五代将軍・綱吉の治療にあたり、元禄五年(一六九二)には盲人の統轄役となる惣検校職となり、その政治力で多くの弟子を諸藩の侍医に送り込み、盲人鍼医の勢力を広げていった。また、このころからの都市の発展とともに、町人にも鍼医の需要か有り、町医者にも鍼医の看板を掲げる者が少なくなかった。

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