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江戸時代の大地震

越後大地震
文政十一年(一八二八)

越後大地震

文政十一年十一月十二日の朝八時ごろ、越後の三条町・長岡・与板・和木野町など十里四方に大地震がおこった。寺社や民家がばたばたと倒れ、人びとはあわてて戸外へ逃げたため同時に火事がおこった。阿鼻叫喚、圧死した者、焼け死んだ者は、なんと三万人にも上った。しかも余震は十四日まで、頻繁につづいた。(マグネチュード6.9程度と推測)

京都大地震
文政十三年(一八三〇)

京都大地震

文政十三年七月二日、朝から猛烈な暑さに市民は音をあげていたが、午後四時ごろ雲もないのにとつぜん天空に雷のような音がした。と同時に人地が大揺れにゆれ、町家や土蔵がばたばたと倒れて死傷者が続出した。公家も町人もみな飛び出し、その夜は屋外で野宿した。翌三日の朝までに余震およそ百二十四回、その後も一時間に七~十回の地震かつづいた。このため二条城の石垣はくずれ、地面に七、八寸の裂け目が生じ、北野天満宮では七十八本の石灯籠がすべて傾いたという。死者二百八十人、禁裏をはじめ有名寺社がそうとうの被害をうけた。(マグネチュード6.5前後と推測)

美濃国大地震
天保四年(一八三三)

美濃国大地震

天保四年四月九日午後一時ごろ、美濃国一円に大地震かあった。およそ十八里の宿場や村々て、大震動と地割れが激しく、住民や家畜の被害は計り知れない。城下でも町民は往来へ戸板や畳を敷き、その上で地割れの難をのかれようとしたが、激震に人地は波のように揺れ、泣き叫ぶ声は天地に満ちて、まことにこの世ながらの地獄だった。家屋の倒壊と人死は数を知らす、美濃の地震は文政二(一八一九)年の京・伊勢・美濃一帯のもの以来十四年ぶりである。(マグネチュード6.1程度と推測)

豪雨と地震で富士山大洪水
天保五年(一八三四)

富士山大洪水

天保五年四月七日、富士山麓一帯に豪雨がふり、翌八日もおなじ荒天だったが、その正午ごろ激しい地震に襲われた。そのため山腹五合目あたりの雪解水が、どっと駿河側の山麓へ流れくだり、裾野の村を一瞬に呑みこんだ。その惨状は長さ七~八里、幅三里の人家・耕地のことごとくを流され、十二、三里の間は見渡すかぎりの荒無地と化した。中でも被害甚大なのは幕府の御用林で、高さ二、三丈、さしわたし四、五尺もある大木が折れ、岩石と共に押し流されたことである。が、この洪水は『日本災異志』には地震の部にあり、洪水より地震の被害が大きかったことを語る。

信濃大地震
弘化四年(一八四七)

信濃大地震

弘化四年三月二十四日夜十時ごろ、信州一帯に大地震がおこった。あいにくこの月のはじめから、善光寺でご開帳があり、諸国から信者が集まって混雑していた。そこへぐらぐらっときたので、案内知らぬ旅人は逃げまとって大騒ぎ、つぶされた家の下敷きになった者が数知れない。さらに、倒壊家屋から出火、門前町はたちまち火の海となった。余震はその後も雷鳴のような、凄まじい音と共に絶え間なく続き、一夜に八十余度もあった。大地は裂け、泥砂流出し、犀川上流て崖崩れがあったため、流れが堰き止められて大洪水となった。かく二重にも三重にも災厄が重なり、死者三万にのぼるともいわれた。ところで、地震に先立つご開帳まえ、門前に拝観注意の高札を立てたところ一夜で消え、二度立てたがこれも紛失、三度目には昼夜番人をつけたという。思えばこれは善光寺ご本尊が、庶民に地震を予知されたのか。(マグネチュード7.4程度と推測)

東海大地震
嘉永六年(一八五三)

東海大地震

嘉永六年二月二日午前十時ごろ、東海地方に大地震があった。なかでも相州小田原で被害が大きく、小田原城の角の櫓が崩れたほど、まして町家は将棋倒しとなった。被害は陶陵郡神戸、大磯宿、大山辺、箱根および伊豆の熱海、二島、沼津のあたりまでおよんだ。さらに同夜十二時近く火を出し、多くの家を焼き、死者三千七百八十人にのぼった。(マグネチュード6.7前後と推測)

大坂大津波
嘉永七年(一八五四)

大坂大津波

嘉永七年十一月四日、四国・近畿・東海地方に大地震があった。大坂ではぐらぐらときた瞬間、驚いた市民がわれ先にと掘割の小舟へ逃げこんだが、つづいて襲った津波に数十艇の巨船が木津川口から逆行、避難者を乗せた小舟をはね飛ばした。溺れる者数知れず、さらに道頓堀川の日吉橋から金屋橋まて、架け並ぶ諸橋をつきつきぶち壊してしまった。長堀川ても心斎橋まて船が押しのほる始末て、川口の都市独特の被害をだした。余震は七日まてつつき、死者二千余、倒壊家屋二百三戸、落橋は実に十九橋を数えた。かわら版の冒頭に「沖は雷の如く呻り、津波の高さ一丈」と、その瞬間のおそろしさを述べている。(マグネチュード8.4程度と推測)

安政の大地震
安政二年(一八五五)

安政の大地震

安政二年十月二日の夜十時ごろ、江戸の大地が激しく鳴動した。震源はほぼ江戸のまん中しかも浅い所とみえ強烈に揺れた。家が潰れ、火を発し、人は生きながら焼かれて酸鼻(さんび)をきわめた。余震は二十九日までつづき、はげしい日は八十回を数えた。被害は丸の内の大名屋敷、上野・浅草の寺社・町家にひどく、本所・深川の町々もほとんど全滅した。お江戸名物浅草寺の五重塔もこのとき傾いた。哀れなのは吉原て、ちょうど歓楽の極致にぐらぐらっときた。男女あわてて逃げたすとたん、梁の下敷きとなった客は自業自得として、三千の遊女は逃げ場を失って焼け死んだ。この地震火事により、焼失家屋は約十万、当時江戸の民家は三千五、六万なので、武家をのぞきほぼ三分の一が灰になった。また死傷者一万五千のうち、死亡者はざっと七千人なので、当時の人口を百二十万とすれば、百七十人に一人の死者をだしている。何といってもこの地震は、親戚の有無にかかわらず全国的なニュース。巧拙遅速さまざまのかわら版が六百種ほどでたという。(マグネチュード8.1程度と推測)

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