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化粧(けわい)

「けしょう」ともいう。女性が顔を中心に白粉や紅を使って、美しく装うこと。化粧は古くから行われたが、江戸時代は、それが飛躍的に発達した時代である。江戸時代の化粧は、白粉を塗り、口紅やほお紅を付け、眉を剃り、お歯黒を塗るというのが基本である。

喜多川月麿作 姫君図
喜多川月麿作 姫君図

よく読まれた化粧法の本である『都風俗化粧伝』は、京都風の化粧を紹介した本で、佐山半七丸著、速水春暁斎画により、嘉永四年(一八五一)に刊行された。「都会には美人が多いが、都会にだけ美人が生まれ、田舎には醜い女が生まれるということではなく、都会の女性はその顔に応じた化粧をし、身恰好に合う衣服を着るから美人に見えるのだ」とし、「この本を読めばたとえいかなる難癖のある顔であっても、たいへん美人になる」と書いてある。顔を白くする方法、白粉の溶き方や付け方、紅の付け方、にきびや黒子の取り方、しわを伸ばす方法などのほか、目の小さいのを大きく見せる方法、鼻を高くする方法、いかり肩をなで肩にする方法なども書かれており、当時の美人観が伺える。また、興味深いことは、化粧が驕奢(奢って贅沢をすること)や風流のためではなく、礼容を整え愛敬を添えるため、結婚後は舅や姑、夫に対する礼である、と積極的に評価していることである。こうした理屈によって、女性は安心して化粧に励むことができたと思われる。

化粧水

元禄(1688~1704)以前から、芝神明門前町の大好庵、または林喜右衛門家では「花の露」と称する化粧水が売られていた。もとは薬油だったと言う。『守貞謾稿』(もりさだまんこう)には、花の露・菊の露・江戸の水等を、みな同製としている。御殿女中が用いたとあるので、市内婦女はあまり用いなかったものと思われる。ガラスの小さな器入り、または木箱で陶器に入っていた。化粧水には、古くはヘチマの水などを使っていたが、やがて蘭引と称された蒸留機が伝来すると、野バラや生薬を使って自家製も作られるようになった。



白粉(おしろい)

化粧の基本となったのが、白粉である。白粉は、鉛粉あるいは水銀粉を用い、水に溶かして刷毛で塗った。上方産の京おしろいがあり、丁子香(ちょうじこう)などの名がついていた。また、はつちりと言って首に塗る白粉もあり、顔おしろいとは区別された。頬につける赤色の紅粉や、爪紅と言って爪を赤く染めるものもあった。さながら、現在のマニキュアである。

江戸時代には、一般に鉛白粉が使われた。これを水で溶き、掛毛や手で顔から首、襟、胸元まで塗った。化粧法の指南書『都風俗化粧伝』は、京都風の化粧を紹介した本で、「白粉は、まずよく溶くことが大切で、それを手で薄くのばし、眉刷毛に少し水を付けてていねいに何度も刷けば、白粉がよく伸びて光沢が出る」「鼻には白粉を少し濃く塗る」などと教えている。

美艶仙女香
美艶仙女香

江戸時代の白粉で最も有名な商品は、江戸京橋南伝馬町三丁目稲荷新道の坂本屋から売り出された『美艶仙女香』(びえんせんじょこう)である。所在する地名から、狐(稲荷からの連想)のようによく化ける、と言われた。美艶仙女香は一包み四八文で、『江戸買物独案内』には、「色を白くし、きめを細かくし、"はたけ"や"そばかす"に効き、できものの跡を早く直す」と効能が書いてある。坂本屋は宣伝にも巧みで、浮世絵の美人画などに『美艶仙女香』の包紙がなにげなく描き込まれている。江戸後期には、笹色紅と言って唇を青くしたり、真鍮色にする化粧法があった。ただ、後期に頬紅を用いたのは芝居関係者で、普通の婦女はあまり用いなかった。

唇や頬につややかな赤みを差す化粧で、紅花から作られ、色は赤一色である。化粧法の指南書である『都風俗化粧伝』によれば、「紅を付けるときは、下唇には濃くぬり、上唇には薄く付けるのがよく、上下ともに濃いのは賤しく見える」とされる。「紅を濃く光らせたいときは、まず下地に墨を塗り、その上に紅を濃く付けると、紅の色が青みがかって光る」という。また「口の大きい女性は紅を薄く付け、口の小さい女性は紅を濃く付けるとよく、しまりのない顔を引き立てるためには、目の上に少し紅をさすとよい」と教える。江戸後期には、下唇にだけ紅を濃く付けて、笹色に発色させる化粧も流行した。これは、「金一匁、紅一匁」といわれるほど紅が高価で、それをふんだんに使うという遊女の見栄から始まったという。笹色とは、濃く付けた紅が乾いた際に黒ずんで青く光る線色のこと。

お歯黒

江戸時代、既納の女性か曲に施した黒い化粧。鉄漿(かね)ともいった。お歯黒は、酢、酒、米のとぎ汁などに釘などを入れて作ったお歯黒水と、タンニンが主成分の五倍子粉を、筆で歯に交互に塗り付けた。お歯黒水はたいへんくさく、朝、家の者が起きる前に使ったという。黒は他の色に染まらないということから、貞女の証として慣習になったとされる。『守貞謾稿』(もりさだまんこう)によると、江戸では20歳未満の未婚の女性であっても歯黒をつける者が多かった。また、武家の下女も、夫がいなくても16~17歳以上は黒くしたと言う。

お歯黒は、幕末、日本に来た外国人の評判が悪く、「日本の末娘の娘はたいへんかわいいのに、結婚すると醜くなる」とされ、アメリカ使節のマシュー・ペリーも「この習慣が夫婦の幸せに貢献することはないように、我々には思える。接吻は求婚時代に終わってしまうのだろう」と否定的に書いている。明治時代(一八六八~一九一二)になると、外国への配慮のためか、お歯黒は禁止され、徐々にすたれる。ちなみに、庶民の女性は、子どもが産まれると、眉を剃った。当時の女性にとって、お歯黒を付けることを半元服といい、子供を産んで眉そりをすませることを本元服と呼んだ。

印籠

腰に提げて携行する薬入れ。薬籠ともいう。蓋と本体(三重または五重のものが多い)の穴に紐を通し、紐の先端には根付けを付けて滑り止めとした。安土桃山時代(一五六八~一六〇三)から用いられ、元禄(一六八八~一七〇四)のころには武士のファッションとして定着した。材質は漆塗り、陶製のもの、金属製のものなど多様だが、多くは華麗な蒔絵が施された。テレビドラマ『水戸黄門』で、水戸藩隠居・徳川光園を前に家臣の助さん・格さんが葵の御紋入りの印籠を出す場面でおなじみだが、初期のころの『水戸黄門』では、印籠を用いていない。実際、もしそういう印龍を持つ者がいたとしても、それは拝領品だと理解され、黄門様本人とは誰も思わなかったであろう。

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