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世界に開かれた四つの窓

江戸時代の対外関係のあり方を示す用語。江戸幕府三代将軍・家光までの時代に、キリシタン禁令、幕府による貿易統制、日本人の海外渡航禁止が実現されたことから、「鎖国」が成立したとされる。特に、寛永一〇~一六年(一六三三~三九)までに出された法令が、「鎖国令」であるとされている。この過程で、朱印船貿易は途絶し、ポルトガル人が追放されたため、多くの日本人は外国人と接することがなくなった。しかし、オランダ人と中国人は長崎において貿易を許され、朝鮮とは対馬藩を介して国交があり、琉球は薩摩藩の支配下に置かれていた。また、松前藩はアイヌ民族と交易を行っていた。こうしたことから、江戸時代には長崎、対馬、薩摩、松前の「四つの窓」が外国に開かれており、「鎖国」ではなかったという説も生まれている。

対馬

朝鮮国との窓口になったのが、藩主宗氏による対馬藩である。対馬藩は中世以来、日本と朝鮮国との交易を仲介し、対朝鮮交易に関しては日本を代表する藩であった。豊臣秀吉による文禄・慶長の役以後、日朝関係は冷え切っていたが、徳川幕府になって朝鮮通信使が来目するようになった。通信使は国書を持参し、江戸に参府して徳川将軍に謁見した。そこには、我が国と対等な交易国としての関係があった。

使節団の来日数は、慶長一二年(一六〇七)の初回から文化年間(一八〇四~一八)まで一二回に上り、うち一〇回は江戸で応対が行われた。一行は総勢四〇〇人余りであり、日本側の供回りも加えると一〇〇〇人以上に上った。江戸では東本願寺などを宿所とした。その行列のさまは絵巻物などにも措かれ、往時をしのぶことができる。この一二回の間には、国書の将軍待遇署名をめぐり、新井白石などによる波紋が広がった時期もあった。

草梁倭館絵図
草梁倭館絵図

対馬藩は、朝鮮国の釜山に倭館と言う貿易拠点を設けていた。延宝六年(一六七八)に設置されたものは、およそ一〇万坪の広さであり、対馬藩役人だけでなく、さまざまな技術者・商人・通詞など五〇〇人余りが常駐していた。そして、日本からの物資を輸出するだけでなく、広く朝鮮国の品々を購入し日本へ送り込んだ。なかでも朝鮮人参は、日本では栽培できない貴重な薬種のひとつであり、需要が高かった。延宝二年(一六七四)には、江戸に人参座を設置し、購入者の便宜を図った。各将軍家も藩を通じて購入を依頼した。対馬藩は日本にとってかけがえのない地位を占めていた。

対馬藩は、前半は、日本の丁銀を輸出して、中国産の白糸・絹織物や薬種(とくに人参)などを輸入していた。しかし、後年は、生糸や薬種の代替が進み、銀貨も不足して交易が衰退していったので、幕府の財政的援助を受けながら日朝の交易を続けた。このような交易の裏には、日本側の知識人の活躍もあった。中でも、雨森芳洲の功績は特筆すべきであろう。芳洲は朝鮮語や中国語にも通じており、対馬での語学教育に精を出すとともに、優れた語学関係書物を著した。政治だけでなく、日朝の架け橋となった文化的功績には大きなものがあった。

薩摩

薩摩が行ったのは琉球貿易である。薩摩と琉球との関係は一五世紀中頃から始まり、一七世紀初頭まで、琉球国からは薩摩の新しく代わった藩主への「臨交」船が渡船していた。しかし、慶長七年(一六〇二)に琉球船の我が国への漂着事件があり、その処理に絡んで、薩摩と琉球との間がギクシャクした。慶長一四年(一六〇九)、琉球出兵の機会をうかがっていた薩摩は、幕府の許可が降りると、ただちに琉球出兵に踏み切った。琉球が日明貿易の仲介を断ったと言うのが大きな理由である。薩摩は一か月で首里城を陥落させると、国王尚寧以下を捕虜として帰国した。その後、幕府から琉球の正式な墨印状を拝領し、琉球在番を置いて実質的な琉球支配を始めた。

寛永一一年(一六三四)から一八回、明治五年(一八七二)の最終回を入れると、合わせて一九回にわたって、琉球国王から賀慶使および恩謝使と呼ばれる使節団が派遣されてきた。前者は日本の幕府将軍の代替わりの際に、後者は琉球国王の襲封時に行われた。二回目からは、薩摩藩の参勤交代と一緒に江戸まで参府した。使節団の一行は一〇〇人弱から二〇〇人弱であったが、薩摩藩との合同になると、総勢数千人に上る大行列であった。琉球楽器をならしながらの行列は、日本各地の人々に異国情緒を与えるものであった。朝鮮通信使と同様、このような光景が何度となく繰り広げられ、その度に人々は沿道に出てその様子を楽しんだ。天保期(一八三〇~四四)や嘉永期(一八四八~五四)には琉球ブームも起こり、薩摩藩邸での琉球との文化交流は、江戸の知識人たちにとってもかけがえのない外国情報源のひとつであった。



長崎

ロッテルダムの会社が派遣した商船リーフデ号は、慶長五年(一六〇〇)、豊後に漂着した。この時の乗組員ヤン・ヨーステン、ウイリアム・アダムスらが徳川家康に召し出され、日本との関係か始まった。二年後、オランダは東インド会社を設立し、慶長一四年(一六〇九)に同社の船が長崎平戸に渡来した。家康は貿易の朱印状を与え、平戸にオランダ商館が開設されて、日本と西洋との交易が本格的に開始された。

寛永一八年(一六四一)には、すでに同一三年(一六三六)に完成していた長崎出島に商館を移し、日本の海外貿易の拠点とした。オランダ商館にはカピタンと呼ばれる商館長以下、台所役・医者など一〇数名の館員がいた。元禄期(一六八八~一七〇四)のケンペルや幕末のシーボルトなどが有名である。出島は長崎奉行の支配を受け、出入りは厳重に管理された。また、オランダ通詞も多数おり、世襲制で通訳官の役割を果たした。

商館長は通常一年交代で、寛永十年(一六三三)からは毎年江戸に参府の上、将軍に謁見した。寛政二年(一七九〇)以後は四年に一度となったが、それでも一六〇回以上に上る。江戸での宿は、長崎屋(長崎屋源右衛門)とオランダ定宿であった。この江戸参府は、江戸の医師や知識人にとっては西洋の知識を得る絶好の機会でもあった。また、幕府は商館長の交代時に、長崎奉行を通じてオランダ語で書かれた海外情報の報告書の提出を義務づけた。これは「和蘭風説書」と呼ばれ、正保元年(一六四四)のものが現存する最古のものである。幕府にとっては重要な情報源であった。また、オランダの他に、中国や東南アジアの渡来船にも提出を求めた。これは「唐船風説書」と呼ばれ、林鵞峰(はやしがほう)らにより『華夷変態』として編纂されている。これらの中国船を通じても、西洋の知識・文物は流入したのである。

松前

蝦夷諸島図
蝦夷諸島図

松前氏は我が国最北の外様大名であり、蝦夷島(現在の北海道本島)を統治した。米は収穫できないので無高とされたが、後に一万石格となった。慶長九年(一六〇四)、家康よりアイヌとの独占交易権を許可された。領地はアイヌ領と和人地とから成っていたので、上級家臣にはその交易の場を知行として与える「商場知行制」を取り、交易を行った。家臣たちは米・酒・鉄製品などを持ち込み、アイヌからは海産物・毛皮などを入手した。その後、一八世紀前半からは、交易や漁業を委託し運常金を徴収して経営を任せる、「場所請負制」へと移行した。請負人たちはとくに漁業に力を入れたので、昆布やニシンなど海産物を扱う産業が活発化し、「俵物」の有力な輸出品目となった。

江戸時代前期には、松前船と呼ばれる交易船が全国に運航された。初期には、アイヌとの間に少なからぬ係争があった。さらに、一八世紀後半からはロシアが南下政策をとるようになり、北の脅威となった。そこで、幕府は松前藩を上地として代替地を用意し、蝦夷地は幕府領として箱館奉行に統治させた。奉行は積極的な開拓事業を行い、アイヌの生活保障も組み込んで関係改善を図っていった。一九世紀中頃には再びロシアの南下政策が活発化したので、幕府は箱館の開港を決定し、警備に東北諸藩を当ててロシアに対した。その後、開拓・移住も進み、蝦夷地は海産物の宝庫として幕府の経済を支えた。

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