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盛り場

娯楽施設や商店、飲食店などが集まり、大勢の人でにぎわう地域。多くの人口を抱える江戸では、いつもにぎわう盛り場があった。村では祭の日だけしか娯楽がなかったが、江戸の盛り場は年中ハレの日という祝祭空間だった。盛り場の中心は芝居小屋で、木挽町(東銀座)には歌舞伎や人形浄瑠璃、軽業師などの芝居小屋が並んだ。増上寺や浅草寺の寺社門前には参拝人をあてこんだ見世(店)が並び、盛り場となった。増上寺への道筋である日影町には、衣料品、小間物、江戸土産などの見世が並んだ。日本橋南岸の日本橋と江戸橋の間は、明暦の大火(明暦三年「一六五七」後、火除けのための空き地となるが、ここが盛り場化とし、一〇〇軒を超える床見世ができた。ここには、小間物や古本を売る店、菓子屋、水茶屋、矢場(射的場)など、ショッピングや娯楽のための施設があった。

同じく明暦の大火後、両国橋が架かると、広い空間ができた東西の橋詰が盛り場となった。西両国には歌舞伎や浄瑠璃の芝居小屋が立ち並び、小間物、伽羅油などを売る店があり、手品や軽業などの大道芸もあった。東両国の回向院では大相撲の興行もなされた。幕末、江戸勤番に出た紀州藩士・酒井伴四郎は、両国橋に行き、ストリップや虎(実は豹)の見世物を楽しんでいる。

富くじ

江戸時代の宝くじ。木札を錐(きり)で突いて当選者を決めることから、富突、突富などとも呼ばれた。起源は一六世紀後半の上方の寺院で、江戸にも普及し、元禄~享保期(一六八八~一七三六)に盛んに行われた。幕府は、たびたび禁令を出し、ついには「御免富」という公的に許されたものだけが興行することになった。この興行をできたのは寺社で、堂舎の修繕を口実とする資金集めであった。

江戸でにぎわったのは谷中感応寺、湯島天神、目黒不動などの富くじで、文化~天保期(一八〇四~四四)の最盛期には、一カ月に三〇カ所以上で興行された。しかし、興行数が増えるにつれて札余り現象も生じ、赤字となって撤退する寺院もあった。文政未年(一八二九~三〇)ごろの最高賞金額は三〇〇両で、札の代金は金一朱から二朱、あるいは銀二匁から三匁五分ほどであった。これは職人の一日分の手間賃ほどの額で、一枚の札を数人で分割して購入することも行われた。本来は、寺社の境内でしか売買が許されなかったか、境内以外で販売する札屋も増加した。

見世物

盛り場や祭りの縁日などで、曲芸や珍しいものを見せる興行。江戸時代後期、江戸の両国や浅草、大坂の難波新地などの盛り場では見世物が行われた。見世物には、軽業・曲馬・力持ちなどの曲芸、動物見世物、細工見世物などがあった。

曲芸のレベルは世界的水準にあり、軽業師の小竹虎吉は慶応三年(一八六七)にアメリカに渡り、サンフランシスコで興行して評判となった。

和合駱駝之世界
和合駱駝之世界

一方、文政四年(一八二一)に両国で行われた駱駝(らくだ)の見世物は大当たりで、数十万人もの観客を動員した。この駱駝は、オランダ船がアラビアから長崎に舶載したものである。万延元年(一八六〇)、江戸勤番の紀州藩士・酒井伴四郎は、両国で虎(実は豹)の見世物を見ている。この興行では、七〇〇文出せば、オリの中に鶏を入れ、虎に鶏を食べさせる様子を見物できた。

また、文久三年(一八六三)に興行された両国の象の見世物も大人気だった。細工の妙技を生で見せる細工見世物では、文政二年(一八一九)に浅草で興行された籠細工が大当たりした。ここでは、『三国志』の関羽などの数十体の巨大な人形が、龍で作られていた。幕末には、人間の肌そっくりに作られた生人形が人気を博した。このほか、女相撲や、女性の陰部を露出する芸、蛇女・鬼娘・福助など、人間を見世物とするものもあった。見世物芸は、武士や庶民を問わず江戸時代には最大の娯楽であったから、興業する側は、人々に受けると思ったら、何でも取り入れた。

花火

東都両国夕涼之図 花火
東都両国夕涼之図 花火

現在でも行われている「隅田川花火大会」の前身となる隅田川の花火は、享保一八年(一七三三)、江戸両国で始まった。前年に起こった「享保の大飢饉」により多数の餓死者を出し、さらに疫病も流行したことから、この年五月二八日の川開きの日に、死者の霊を慰め、悪疫退散を祈願する水神祭が催され、花火を打ち上げた。これが名物となり、例年五日二八日の川開きの日から八月二八日まで、連日花火が打ち上げられることになったのである。

花火の原料は煙硝(煙を発する火薬)と木炭と硫黄で色は赤色だけだったが、花火師が工夫をこらして、さまざまの形の花火が考案された。花火師には玉屋と鍵屋かあり、両国橋の上流と下流に花火船を浮かべ、川べりの料理屋や納涼船の遊客の注文に応じて打ち上げた。この花火を見るために、両国橋は人で埋まり、多くの納涼船が隅田川に浮かんだ。松尾芭蕉の門人(門弟)・其角に「一両が花火間もなき光哉」という句があるように、当時の花火は客が一両を出して上げてもらうものであった。大坂でも、天満天神祭の際に大規
模な花火が打ち上げられた。

花見

貴族や武家は、古くから花見を行っていた。歴史上では、慶長三年(一五九八)に京都の醍醐寺で千数百名を集めて行われた、豊臣秀吉の醍醐の花見が有名である。しかし、庶民が酒弁当を持って花見に行くのは、江戸時代からである。江戸で花見の場所といえば、将軍家の廟所である寛永寺があった上野だった。桜の時期には上野に庶民が集まり、酒食や遊興にふけった。八代将軍・吉宗は庶民の遊楽の場所を増やすため、現・東京都北区王子の飛鳥山に桜を植え、花見の名所にしようとした。これは大成功し、飛鳥山は花見客でにぎわうようになった。吉宗は、隅田堤や品川の御殿山にも桜を植え、五代将軍・綱吉が設けた中野の犬小屋跡地には桃を植えて名所とした。
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