ようこそ!お江戸ちゃんばら時代劇へ

江戸の花街と遊女2

心中

遊女が、心底惚れた相手に対して真実を尽くす手段を心中という。この言葉は、本来は衆道(男色)で行われたもので、小指を切り落とすなどの行動で愛情の証をしていた。それが吉原にも持ち込まれ、思う相手に小指を切って渡すなどの証をした。その後、愛し合った者同士が、この世では結ばれないことを悲しんで情死する事件が起こるようになると、これを心中というようになった。

一七世紀末には、心中事件が頻発し、大坂の劇作家・近松門左衛門は、現実に起こった心中事件を取材し、『曽根崎心中』や『心中天網島』を書いた。これは人形浄瑠璃で上演され、大人気を博し、心中が流行現象にまでなった。幕府は、、これを危ぶんで心中とは呼ばせず相対死と呼び、死者の葬式は出させない、生き残った者は殺人犯として厳罰に処し、未遂の場合は日本橋に三日間さらすなどの禁圧策をとった。

身請け

遊女には、実家に渡した前借金があり、これを完済するまでは吉原から離れることはできなかった。遊女の年季は、いちおう二七歳とされているが、前借金を完済できないと、いつまでも吉原で暮らすことになる。逆に、なじみの遊客などが、前借金を完済し、遊女を吉原から解放することを身請けという。身請けされて人の妻になることが、遊女の最大の目標であった。しかも、そのなじみの遊客が真実を尽くした相手であれば、なお幸せなことだった。ただし、前借金の完済といっても、前借金だけではなく、年季いっぱい勤めた場合の稼ぎ高まで請求する抱え主もいて、身請けするのはなかなか簡単ではなかった。

身前けされる場合は、揚屋、茶屋、その他の知り合いに樽肴(酒樽と肴)に絹織物を添えて配り物をし、先方でも祝杯をあげてくれ、友達の遊女が大門まで見送ってくれる。これは、遊女の晴れがましい門出であり、こうした希望があるから、つらい勤めもできたのだろう。

投げ込み寺

吉原の遊女は、年季が明けるか、身請けされれば吉原を離れることができたが、まだ年季の途中で病死する者も多かった。そういう者で引き取り手のない者は、箕輪(現・三ノ輪)の浄閑寺や隣町の日本堤に接して建っていた西方寺に葬られた。これらの寺を投込み寺という。早桶に入れられ、禿(かむろ)一人が付き添うような寂しい葬式で、あたかも投げ捨てんばかりの葬り方だったからである。

浄閑寺に残る六冊の過去帳には、寛保三年(一七四三)から幕末までの一二五年間に二〇〇〇人ほどの遊女が記されている。その第一冊目には死亡年齢が書かれており、それを集計すると、最年少が一五歳、最高齢が四〇歳で、平均二二・七歳である。つまり、過酷な労働の中で、多くの遊女がまだ若いうちに死んだのである。またこの過去帳には、遊女の産んだ子が多く葬られており、そのほとんどが水子のうちに死んでいることも記されている。遊女が妊娠すると堕胎させる場合が多かったようだが、生まれてもそのまま間引されてしまったのかもしれない。



岡場所

江戸の私娼地。江戸では、吉原以外での売春は非公認であったが、実際には半公認の私娼地が各所にあり、岡場所と呼ばれた。深川八幡周辺、谷中、根津、音羽、赤坂など寺社の門前や盛り場の裏町に百数十カ所もあったという。品川、内藤新宿、板橋、千住などの宿場に宿場女郎と呼ばれる女性がおり、これを岡場所に含めることもある。岡場所では昼夜を四つないし五つに区切って客を取り、金一分ほどで遊べたため、参勤交代で江戸に暮らす諸藩の勤番武士や大店の奉公人などで繁盛した。

隠し売女

江戸幕府非公認の売春婦。江戸では公認の遊郭は吉原だが、岡場所の私娼も吉原名主の管轄下に置かれたため、半公認の存在だった。しかし、それ以外の私娼は、隠売女として摘発の対象となった。夜、堀端などにたたずむ夜鷹をはじめ、髪を剃った僧体の比丘尼(びくに)、小規模な私娼窟で売春する地獄など、多様な形態があった。

隠売女として摘発されると、吉原で二年間勤めさせられることになり、経営者は死財や家財没収などの処罰を受けた。隠売女になる者もさまざまで、中には武家の妻女もいた。『元禄世間咄風聞集』には、妻を夜鷹にして生計を立てていた浪人の姿が見え、文政一一年(一八二八)には、町人の女房が近所の娘たちを集めて売春させ、摘発されている。

芸者

深川芸者
深川芸者

宴席や酒席に呼ばれ、踊りや三味線などの芸を演じて座に興を添える者。最初は男女ともにいたが、男芸者は幇間(たいこもち)などと呼ばれ、やがて女性に限るようになった。江戸では一七世紀末、武家屋敷などに呼ばれて踊りをおどる踊子が出現して人気を博した。この踊子が芸者の起源とされることもある。

吉原に芸者が出現したのは一八世紀中ごろであり、次第に吉原や寺社門前など江戸の繁華な町に芸者が置かれるようになったらしい。吉原以外では最大の岡場所だった深川の芸者は、「辰巳芸者」などと呼ばれて有名だが、江戸の町々にも町芸者がいた。多くが裏店に住み、呼ばれれば、二人一組で茶屋などの座敷へ出た。芸者の売春は許されていなかったが、深川芸者や町芸者は売春するものも多かったという。売春する芸者は「転び芸者」「枕芸者」などと蔑称され、私娼として取り締まりを受けることもあった。

天保一三年(一八四二)、老中・水野忠邦の天保の改革(天保一二~一四年)で深川の岡場所は取り払いを命じられて壊滅し、深川芸者の大半は深川通いの船付きであった柳橋に移り、「柳橋芸者」と呼ばれた。新橋は江戸時代ではさほどの芸者屋町ではなかったが、明治になり、新政府の高官が通うようになって繁栄した。

夜鷹

道端で客を誘う私娼をいう。「夜鷹」の呼称が出現するのは、宝磨(一七五一~六四)以降だが、それ以前にも同様の存在は「辻君」などと呼ばれて存在した。享保三年(一七一八)には、堀に浮かべた船で売春する「船饅頭」と呼ばれた私娼もいた。宝暦期には、鮫ケ橋(現・東京都新宿区)、本所(現・東京都墨田区)、浅草堂前(現・東京都台東区)などに出没し、その数は四〇〇〇人に及んだとされている。のちには、両国が夜鷹の名所になった。「坐夜鷹」といって、外山せず、長屋で客をとる夜鷹もいた。

夜鷹は私娼であるから、嫡発されれば捕らえられ、吉原に送られるが、生活に困った女性が個人的に行うものであるから、黙認されていた。弘化二年(一八四五)には、両国のあたりをはじめ、各所に夜鷹が出て、「御免の夜鷹」と言い触らされるほど繁盛しており、夜鷹の番付までもが出版されている。夜鷹が公許された事実はないが、幕府に取り締まりの意図はなかったようである。

お江戸ちゃんばら時代劇TOPへ
このページのtopへ