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江戸のマスコミ

瓦版

大坂安部之合戦之図
大坂安部之合戦之図

江戸時代のニュース伝達のための、一~二枚刷りの印刷物。絵が中心であるところから「絵双紙」、街演で、売り子が読み上げながら販売していたため「読売り」などと呼ばれた。「瓦版」と称するようになったのは、幕末から明治のころである。価格は江戸時代を通してあまり変わらず、初期のころで三文、のち四文で購入することができた。最も古いものは、元和元年(一六一五)の大坂夏の陣を報じた『大坂安部之合戦之図』『大坂卯年図』といわれている。

元禄時代(一六八八~一七〇四)には、心中の流行にともない、それを報じる好色物が盛んに出回った。幕府は、享保七年(一七二二)に心中を厳禁するが、関連して、瓦版にも規制を敷いた。その後は、幕府が奨励する忠孝(忠義と孝行)や、災害を題材としたものがその多くを占めるようになる。幕末になると、混乱する世相を反映し、政治的事件も多く取り上げられた。

浮世絵

江戸庶民が生んだ風俗画。江戸時代に名主を務めた家や豪農の家の蔵を見ていると、出てくるのは北斎や広重の浮世絵や、江戸絵図などである。鉄道が開通すると、旅に出るのが楽になり、旅の土産はご当地の食べ物になった。江戸時代の浮世絵は、明治には絵はがきとなった。

初期のころを中心に肉筆画もあるが、版画がそのほとんどを占める。創成期には『見返り美人図』(肉筆画)で著名な浮世絵の開祖・菱川師宣が活躍した。師宣の時代は版画技術がまだ未熟であり、色彩も墨のみの一色であったが、やがて絵師が筆で彩色を加える彩色版画が作られるようになった。丹絵・紅絵と呼ばれる。さらに、京都には西川祐信が現れ、八文字屋本浮世草子などに挿絵を描くのみならず、洗練された画風で大きな影響を与えた。同じ頃、奥村政信が現れ、初めは鳥居派を学んだが、後に美人画に個性を発揮した。丹絵や漆絵・紅絵も、やがて、延享(一七四四~四八)頃から色刷版画が始まり、紅摺絵(べにすりえ)と呼ばれた。

明和期(一七六四~七二)に入ると、それまで二~三色であった紅摺絵に対し、多色刷の版画が現れた。きっかけは絵暦の交換会であり、これには旗本が関与した。交換会を主催した旗本大久保忠静(俳号巨川)のもとにいた鈴木春信が美人画などで人気を博し、名を馳せた。その後、歌川派の開祖である歌川豊治など、多くの浮世絵師が輩出した。

天明(一七八一~八九)から寛政(一七八九~一八〇一)にかけては、浮世絵の全盛期である。鳥居派からは鳥居清長が現れ、長身で八頭美人の画風を用い、世情の人気をさらった。また、顔を大きく強調する役者絵の「大首絵」を美人画にもちこんだ喜多川歌麿も、人々から賞賛を浴びた。寛政六年(一七九四)には写楽が現れたが、わずか十か月活動しただけで姿を消した。その人物像は不明であるが、中野三敏氏などの研究によると、阿波藩お抱え能役者斎藤十郎兵衛の可能性が高い。歌川派からは歌川豊国が現れた。豊国は、美人画をはじめ役者絵や郎許絵などに精力的な活動を続け、当代きっての浮世絵師として活躍した。

江戸末期に向かい、渓斎英泉などが美人画に活躍したが、風景画においては歌川広重と葛飾北斎の活躍があった。広重は『東海道五十三次之内』が代表作であり、名所・旧跡を風情あふれるタッチで描き出した。北斎は奇行とともに有名であるが、『北斎漫画』『富嶽三十六景』などを描き、西洋絵画にも影響を与えたほどである。



浮世草子

好色一代女
好色一代女

啓蒙的な内容の仮名草子に代わって、特に上方で流行した娯楽性を重視した風俗小説。天和二年(一六八二)、井原西鶴が、『好色一代男』を大坂で刊行したことが、始まりとされる。これは、主人公・世之介の数々の恋模様を描いた一代記で貞享元年(一六八四)に出された江戸城(菱川師宣の挿絵入り)をはじめ、版を重ねて、ベストセラーになった。続いて、貞享三年(一六八六)には、『好色五人女』『好色一代女』を出版して、西鶴は流行作家としての地位を確立した。このため、出版界においては、西鶴を模倣した好色本が次々と出版され、好色本全盛の時代となった。

西鶴は、元禄元年(一六八八)正月には、初めての町人物『日本永代蔵』を刊行し、当時の新興商人の姿をいきいきと描き出し、武家物では『武家義理物語』、雑詰物では『西鶴諸国ばなし』などを書いた。西鶴の武家物は、義理に苦しむ武家の姿を描いて町人の優位を示したようにいわれるが、逆に数少なくなった武士への追憶と見ることもできる。

『好色五人女』は、放火犯として火あぶりの刑に処された八百屋お七の説話が盛り込まれ、『日本永代蔵』には越後屋三井八郎右衛門の商法など、ホットな題材が扱われて当時の時代性に迫った。八文字屋本においても好色物は主流であり、やがて長編の武家物・歴史物。芝居物・狂言芝居物・お家騒動物・堅気物など、多くの種類を精力的に開拓していった。初期は好色物が主流であり、中には三都の遊里情報を盛り込んだりして、人々の歓心を誘った。其磧にはストーリーテーラーとしての才能が豊かであり、最後まで話の落ちを知らせない運び方は、西鶴とはまた違った独創性を有している。挿絵には西川祐信が描いたものも多く、風俗資料としても貴重である。その他の作者としては、西鶴の弟子を自称する北上団水や演劇趣味が濃厚な西沢一風をはじめ、に錦文流・都の錦・青木鷺水・月尋堂などがいる。

読本

浮世草子に代わって登場した。読本の始まりは、寛延二年(一七四九)刊の都賀庭鐘(つがていしょう)作『英草紙』とされる。この作品は、ほとんどが中国小説の翻案(中国の物語を日本の物語に作りかえたもの)であり、雅文と俗文とを交互に使用して、独特の文体を作り上げた。絵を主体とする「絵本」に対して、「読本」といわれる。前期と後期にわけられ、上方で六世紀中ごろから盛んになったものを前期読本という。代表的な作品に、安永五年(一七七六)刊行の上田秋成『雨月物語』がある。これも、中国小説から題材を採り、それに日本古典の文学内容を加え、格調高い文章で見事な文学世界を作り上げた。対する後期読本は、寛政二年(一七九九)に刊行された山東京伝の『忠臣水滸伝』に始まる。中でも、江戸を中心として流行したものを「江戸読本」という。

江戸では、まず中本型読本が現れた。サイズは縦一八センチメートル、横一三センチメートル程度。同型のものとしては、草双紙・滑稽本あるいは人情本などがある。これらは寛政期(一七八九~一八〇一)中頃から出現し、作者には、後の滑稽本作者十返舎一九や振鷺事などがいる。この中本型は、後の人情本に続いた。

京伝門下の滝沢馬琴(曲亭馬琴)により二八年かけて完成した『南総里見八犬伝』(九八巻一〇六冊)は、当時の大ベストセラーである。仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の八つの珠をもつ犬士たちの織りなす壮大な物語は、晩年、視力を失いながらも、息子の嫁・お路の口述筆記に支えられて完成した馬琴渾身の作品である。馬琴は、原稿料のみで生活した最初の作家ともいわれ、その原筆耕料(原稿料)は一冊あたり金二~五両ほど、年間収入は三五~四〇両ほどになった。

草双紙

江戸時代中期から後期にかけて江戸で刊行された、大衆的な絵入りの娯楽文学の総称。挿絵が主体で、その余白部分、あるいは上部にほとんど仮名書きの本文が入る。いわば文字は、挿絵の解説のようなものである。体裁は五丁(一〇ページ)を一冊とする。子供向けで表紙が赤い赤本に始まり、内容が次第に大人向けになっていくに連れて表紙の色を変えた。そのため、表紙の色によって黒本・青本・黄表紙と呼んだ。

享保年代(一七一六~三六)に盛んに刊行された赤本は、現在でいえば子供の絵本で、『枯木花さかせ親仁』などがある。延享(一七四四~四八)ごろから現れる黒本、青本はやや程度が高く、夢幻性が増す。安永期(一七七二~八一)に現れる黄表紙にいたって小説的な要素が高まる。現在では総称して、「江戸草紙」あるいは「草双紙」というが、草双紙は黄表紙を合冊した合巻のみを呼ぶこともある。

黄表紙

江戸時代中期から後期にかけて、江戸で刊行された娯楽文学。黄色の表紙をかけたことから黄表紙と呼ばわる。安永四年(一七七五)に刊行された恋川原町の『金々先生栄花夢』がその最初とされる。二冊一〇丁(二〇ページ)の短いものだが田舎から江戸に出てきた青年が富豪の養子となり吉原や深川などで遊ぶが、目が覚めて栄花のむなしさをさとって村に帰るという内容である。遊里(遊廓)に題材をとったことが画期的で、世間に歓迎された。当時の世相に題材をとり、諷刺や滑稽な要素を取り入れて流行し、朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ)、実は秋田藩留守居役・平沢常富、山東京伝などが活躍した。

文人にして狂歌(五・七・五・七・七の音に風刺や皮肉を盛り込んだ短歌)などでも知られる大田南畝は黄表紙の評論を行った。しかし、天明七年(一七八七)刊行の、寛政の改革を諷刺したい喜三二の『文武二道万石通』などが幕府の弾圧を受けたことで、心学教化の作風に変わっていく。文化へ(一八〇四~一八)のころには敵討ち者が全盛となり、五丁(一〇ページ)一冊の二冊物や三冊物では足りなくなり、二~三冊をまとめて一冊とし、前編・後編に分けて合巻に移っていく。作者としては式亭三馬、十返舎一九らがいる。

往来物

庭訓往来
庭訓往来

主に手紙文を教材とする初等教科書。有名なものに室町時代(一三三六~一五七三)の『庭訓往来』(ていきんおうらい)があるが、平安時代(七九四~一二世紀末)末期以来広く作られている。「往来」とはやりとりされる手紙の意味で、本来は手紙の文例集だったが、さまざまな礼式を教えるものもできた。中世では、貴族や僧侶の手になるものが普通であるが、江戸時代になると、文人や手習いの師匠の手になるものが多くなった。内容も、諸国の国名を掲げる国尽くしなどの地理、あるいは歴史、産業、経済など、日常のあらゆる知臓を教える教科書として、工夫を凝らして刊行された。

上杉景勝の家臣・直江兼続が、徳川家康に対して上杉家の正当性を主張した有名な「直江状」も、往来物の題材になり、江戸時代に広く知られるようになった。

日本教育史の方面では、江戸時代以前の日本の教育の目的・内容・方法を示す最も重要な資料とされて分析が行われている。

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