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江戸の関所

関所手形

栗橋宿と利根川の渡船場に設けられた関所「日光道中分間延絵図」(東京国立博物館蔵)
栗橋宿と利根川の渡船場に設けられた関所
「日光道中分間延絵図」(東京国立博物館蔵)

諸国の開所を通行するときに必要な証明書。江戸時代の庶民が旅をするとき、まず居住する村の名主か、檀家として所属する郡部に発行してもらう「往来手形」(道中手形ともいう)が必要だった。江戸の町人の場合は、町名主などの町役人が発行した。このほか、箱根(神奈川)、新居(静岡)、木曽福島(長野)、碓氷(群馬)といった、改め(検査)の厳しい関所を通るときは、別に関所手形が必要だった。これも名主や町役人が発行した。ただし、女性の場合は、特別な関所手形が必要で、これを「関所女手形(御留守居証文ともいう)」という。「入り鉄砲に出女」といって、幕府は江戸に武器が入ることと、女性が江戸を出ることを警戒していた。この「女性」とは大名妻子のことで、「出ることを警戒」していたというのは、彼らを人質として江戸屋敷に居住させていたためである。大名の妻や娘が庶民に扮装して、江戸を逃れて国元に帰ることは、江戸時代中期以降はほとんど考えられないことだが、こうした建前は厳守されていたのである。

通関規定が制定されたのは寛永二年(一六二五)で、三箇条あった。それは、「一、番所の前では笠・頭巾を脱がせること。二、乗り物の場合は戸を開けさせること。三、大名や公家などで前もって届けがある場合は改める必要がないこと。」など簡素なものであった。関所ではこれを高札として掲げていた。

関所には幕府から派遣された番士が交替で務め、旅人や荷物の検査が行われ、周囲に柵を設けた所もある。具体的な建築様式は、現存する箱根の関所跡に見ることができる。関所を通過するのには、武器や女は関所手形、男は往来手形が必要であった。万一関所破りで捕縛された場合は、礫・獄門などの厳罰であった。だが、現実にそのような例は少なく、庶民は迂回したり、船上ルートを使ったりした。周辺在住の者は、手形がなくても畑作や運送のためなら通行が可能であった。

関所女手形は、江戸以北では幕府留守居、甲州筋では甲府在番支配(甲斐の甲府を管轄する勤番)、美濃は大垣藩主、摂津と河内は大坂町奉行、山城と西国筋は京都所司代というように、発行する権限のある者が限られていた。そのため、旅をしようとする女性は名主に願いを提出し、その後、名主~領主~幕府留守居というルートで手形を発行してもらう必要があった。なお、幕府留守居を諸藩の留守居役と勘違いしている人が多いが、幕府留守居は大奥の管理を担当する高級旗本である。大名の江戸屋敷の女中や藩士の家族が国元に帰るときは、諸藩の留守居から幕府の留守居へ願い出るので、混乱するのだろう。

箱根関所

東海道を通行して江戸に入るときの最大の関所。譜代大名の小田原藩が管理した。男性や江戸に向かう女性は、生国と名を名乗る程度で通行できたが、江戸から出る女性は、幕府留守居(諸藩の留守居とは別の役職で、大奥の取り締まりなどを行う重職)が発行する「関所女手形(御留守居証文)」がないと通行できなかった。そのため、手形のない者は、箱根の宿で金を払って、関所抜けを手引きしてもらうか、箱根開所を避けて別の道を行く方法がとられた。関所抜けは礫の大罪だが、関所役人もそうした処罰をするのは面倒なので、抜けようとする者を見付けても「道を間違えたのだろう」と追い返したという。

男性の場合は、江戸以北の者であっても、江戸の旅籠で手形を書いいてもらい、江戸の者として通行することもできた。相撲取りなどは体形でわかるので無手形でも通行でき、全国を歩く芸人などもその芸を見せれば通行できた。関所役人は暇なので、芸人が通るときには、「改め」と称して、半日近くも芸をさせて楽しむこともあった。



関所破り・関所抜け

国定忠治が大戸(現・群馬県吾妻都東吾妻町)の関所を破って磔(はりつけ)の刑になったように、関所破りは重罪であった。しかし、開所を通行するためには開所手形などが必要だったので、これを持たない者が関所を越えようとすると、関所破りをするしかない。ただ、江戸時代を通じて関所破りで処刑された者はほとんどない。それは、関所の周辺の村人らが、抜け道を知っており、若干の礼金で案内してくれたからである。たとえば箱根の関所は、小田原城主が預かっていた。江戸に向かう者は、すでに新居(現・静岡県湖西市)の関所で改められているということで簡単に通行できたが、江戸から出る者は厳重に取り調べられた。特に、女性には厳しかったが、清河八郎の『西遊章』によると、関所の手前の集落が密かに開所抜けを手引きしていたという。また、近くの宿屋の主人は関所の役人と親しく、彼に心付けを渡すとほとんど問題なく通れたという。

大井川の川越人足

東海道川尽大井川の図
東海道川尽大井川の図

大井川は、南アルプスに発し、静岡県を流れる一級河川である。江戸時代には、江戸の防衛と、徳川家康の隠居城であった駿府城の外堀の意味もあったことから、橋は掛けられず、渡し舟も禁止されていた。このため、大井川を渡るときは、川越人足を雇った。

江戸時代前期には、わざと深い淵を渡って酒代をせびる悪質な人足もいたが、道中奉行が川会所を設置し、川越料金も一定にした。料金は水量によって差があり、股下だと四八文、腰あたりだと六八文、乳までだと七八文、腕の付け根まで増水していると九八文だった。女性や武士などだと、客を乗せるための輦台(れんだい)を使ったが、これは四人で担ぐので、人足四人分に、輦台のレンタル料が必要だった。

水量が増えると、河川を渡ることを禁じる川留めとなった。その場合、旅行者は川をはさんでの宿場となる島田か金谷の宿で逗留しなくてはならず、さらに経費がかかった。「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」とは、川留めの苦労を表現したあまりにも有名な言葉である。

川越人足は、幕末期に島田と金谷あわせて一二〇〇人ほどいた。江戸時代には、宿場の衰微や失業を恐れる島田・金谷の宿場や川越人足の陳情のため、ついに橋が架けられなかった。橋が架かったのは明治九年(一八七六)のことで、失業した川越人足たちは金谷で広大な茶畑を経営し、静岡県名産の茶が誕生した。

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