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錦絵で訪ねる「お江戸」

「江戸図屏風」

江戸図屏風

「江戸図屏風」(部分、国立歴史民俗博物館蔵)
十七世紀前半の江戸の様子を豪華絢爛な筆致で伝える。寛永十五年(一六三八)に完成し、明麿三年(一六五七)の大火(振袖火事)で焼失した天守が描かれている。大手門前に朝鮮王朝通信使、画面左下に日本橋の賑わいを見ることができる。


日本橋

日本橋
日本橋は、東海道など五街道の起点、江戸の中心地だ。右上に富士山と江戸城がセットで描かれていることからもそれがわかる。様々な物資を運ぶ舟が日本橋川を行き交り下には商人が軒を連ねる魚河岸の様子が見える。一心太助など棒手振りの魚屋はここで仕入れをしていた。江戸は町ごとに木戸で区切られ、木戸番・自身番がおかれていたが、絵の右にも梯子が立っている自身番がある。木枯し紋次郎や座頭市が旅をしていた天保の頃の風景。
(東都名所日本橋真黒井魚市会国 歌川広重画(江戸東京博物館蔵)

駿河町正月賑わいの図

駿河町
富士が見えたので、駿河という地名になった。ここでは、天下の三井越後屋が大きな店構えを誇っていた。富の象徴として劇中ではしばしば「お主も悪」に名を貸す。
(江戸東京博物館蔵)

上野

上野
京都の鬼門を守るのが比叡山延暦寺。それを真似て江戸の鬼門には、不忍池を琵琶湖に見立て東叡山寛永寺がおかれた。将軍家の菩提所があり、飲食音曲は禁止されていたが、元禄の頃から花見どきには「飲めや歌え」のドンチャン騒ぎが行われた。不忍池のほとりには出会い茶屋が並び、時代劇では不義密通の現場としてよく出てくる。
江戸八景上野の晩鐘 渓斎英泉画(神奈川県立歴史博物館威、写真提供=岩波書店)

浅草

浅草
三社祭りの熱狂で知られる金龍山浅草寺には多くの人が集まり、定期的に市が開かれていた。なかでも十二月十七・十八日に正月用品等が売られた歳の市は盛大だった。天保には浅草猿苦町に江戸三座が移転し、明治以降は、十二階や六区映画街ができて大衆芸能のメッカとなった。時代劇の主要舞台の一つであったここは、その時代劇・チャンバラ映画を観に来る人が多数集まった地でもあった。
浅草金龍山市の図 豊原国周画 (江戸東京博物館蔵)

深川

深川
江戸時代初期に埋め立てられた土地に建つ、広大な境内を持つ、八幡様。十七世紀末に永代橋がかけられると参詣客が激増し、十九世紀初めの富岡八幡の祭礼では、人の重みで永代橋が崩壊した。有名な北斎の「富嶽三十六景 木所立川」で見られる紀伊国屋文左衛門などの木場は、八幡様のすぐ近く。鰻屋や船宿、茶店なども多数あり、深川芸者でも知られる土地でもある。
東都深川富ケ岡八幡宮境内全図 歌川広重画 (江戸東京博物館蔵)

隅田川 両国橋

隅田川
享保の飢饉の翌年から悪疫退散を祈る祭りが行われた。その頃から、川開きの5月28日から3カ月間、花火が隅田川の夜景を飾るようになった。両国橋あたりは見せ物小屋や水茶屋、屋台が並び、西瓜などの水菓子売りも商売に精を出した。屋形船の間をうろつく、物売りが乗ったウロ船も出ていた。「宵ごしの金は持たない」江戸っ子たちが大騒ぎしている様子が見える。夕涼みに来たのに、汗をかいて帰るはめになりそうな光景だ。
東都両国夕涼之国 歌川貞房画(江戸東京博物館蔵)

中村座

中村座
江戸で最も賑わうのは、朝の日本橋、畳の芝居町、夜の吉原といわれた。京の河原で始まった歌舞伎は元禄の頃に興隆し、江戸後期には爛熟したものとなった。歌舞伎四座のうち山村座は絵島事件で廃絶し、江戸王座は日本橋近くの芝居町で興業していた。 しかし、幕末に浅草の猿苦町へ移転させられた。こうて浅草のはずれに、芝居町と遊郭という悪所がそろった。歌舞伎の伝統は、脚本、演出、役者など多くの点で時代劇に大きな影響を及ぼしている。
踊形容江戸絵栄 三代歌川豊国画 (江戸東京博物館蔵)

新吉原

新吉原
芝居町と同じく吉原も江戸初期には江戸の中心に近い葺屋町(葭原→吉原)にあったが、十七世紀半ばに浅草はずれの場末に移転させられた(新吉原)。其角が「闇の夜は吉原かり月夜かな」と詠んだ不夜城。当時江戸は独身や単身の男性の割合がとても高く、冷やかしも含め侍や町人が多数吉原に吸いよせられた。歌舞伎の「助六」や、「退屈だ、退屈だ」とつぶやく『旗本退屈男』など、吉原が出てくる物語は枚挙にいとまがなり「張り」「意気」などの美意識が吉原での遊びには欠かせない。
江戸名所吉原仲の町桜時 歌川広重画(江戸東京博物館蔵)
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