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江戸の長旅

旅行案内記

江戸時代、庶民にいたるまで旅が盛んになるにつれ、ガイドブックが多く出版された。文化七年(一八一〇)に刊行された、八隅慮庵著『旅行用心集』を見ると、旅の用心六十一ヵ条、道中所持すべき品、全国の街道の道順など、懇切な解説がある。たとえば、「旅籠を選ぶときは家作りのよいにぎやかなものを選べ、少しぐらい高くてもそれだけの益がある」「旅籠では相宿になることがありがちだが、自分がよく用心すれば大丈夫である」「道中は色欲を慎むべきで、売女には病気があることが多い」などである。また、「道中の荷物はできるだけ軽くすること」「旅龍の行灯は消えやすいので、懐中付木は必須である」「洗濯物を干すのに麻綱は便利だ」などの心憎いばかりの教えもある。さらに、携帯すべき薬なども列挙されている。こうした旅行案内記は、名所記とともにさまざまな種類のものが刊行されており、当時の庶民の旅行熱がうかがえる。

宿場

旅人が宿泊する施設が集まる場所。宿場そのものは古くからあったが、徳川家康は、東海道や中山道の各宿場に、領主が徴収する地代「地子」を免除する代わりに、公用の馬を使う者に発行される伝馬手形を持つ者に対して人馬を提供させた。宿場は次第に整備され、東海道五十三次などの宿場が成立した。宿場は、運輸・通信・休泊を任務とする公共施設でもあり、その業務を果たすための「間屋場」が置かれた。

幕府が設置させた公儀の継飛脚は、幕府役人の遠国赴任の際には、宿場の負担により低額の公定運賃で勤めた。一方で、公用人馬に余裕があるときは、相対で料金を決め請け負うことが許された。宿場には、大名や幕府役人の宿泊施設として本陣や脇本陣が置かれ、一般の旅人は旅籠に宿泊した。幕府は、宿駅制度を存続させるため、助成金を与えたり、飯盛女を置くことを許したりもした。

本陣

関宿(三重県亀山市)の本陣
関宿(三重県亀山市)の本陣

宿場で、参勤交代の大名や勅使、あるいは幕府役人などが宿泊した民間の施設。一宿場に一本陣という規則はなく、複数ある大きな宿場もあれば、まったくない宿場もある。本陣には屋根付き冠木門や式台付きの玄関、平屋建てで、書院造りの上段の間や泉水付きの庭園などがあった。

参勤交代の際、大名は側近の家来とともに本陣に入り、食事は随行した料理人が作る。宿泊代相当の料金有払うが、それ以外にも、本陣亭主の献上物に対する謝礼おや祝儀などを与える。中小人名では、本陣まかないの料理をとる者もいた。

本陣を務める者は、旧家の者で、名主や問屋役(宿場の業務や事務を果たす問屋場の統括責任者)を兼任し、苗字帯刀が認められる有力者だった。しかし、大名財政が窮乏すると、謝礼金の支払いを惜しんで献上物を断る大名が出るなど、あまり有利なものではなくなり、経営に苦しんで、本陣株を他人に譲渡する者も出た。空いているときは、一般の旅行客を泊める本陣も出てきている。本陣に準じる宿泊施設に脇本陣がある。



旅籠

赤坂宿(愛知県豊川市)の旅籠
赤坂宿(愛知県豊川市)の旅籠

宿場における本陣やそれに準じる脇本陣以外の食事付きの旅宿。食事を供しない宿泊施設は「木賃宿」と呼ばれ、武士や庶民の旅行客が宿泊した。参勤交代でも、大名の家臣は旅籠に宿泊した。旅籠の多くは二階建てで、飯盛女を置く飯盛旅籠と、置かない平旅籠があった。飯盛旅籠では、旅行者を宿に誘う留女がいて、強引に宿に引き込むことがあった。留女は飯盛女を兼ねていた。

東海道の旅籠の宿泊料は、一泊につき、上の部類で二〇〇文、下では一二〇文、木賃宿なら五〇文以下で、中山道では、上の宿が一五〇文ほど、東北地方なら木賃宿が一六文というところもあった。東海道の旅籠屋数は宿場平均でおよそ五五宿、全体で一二〇〇〇軒程度と言われる。健全な旅行にするために旅籠屋も仲間を作り、組合活動も行った。文化元年(一八〇四)には浪花講が結成され、講に加盟した旅龍は目印の看板を掲げた。これらが好評を博し、三都講や東講などが続いた。

公用旅行の武士は藩指定の旅寵、すなわち御用宿に泊まるのだが、これも取り立てて部屋数が多いというものではなかった。

そういうしだいだから、相部屋はもちろんのこと、自分が泊まる時は他の旅客の宿泊はあいならん、と権威を振りかざす横暴な輩もいた。

公用の武士の旅行は、旅籠でも時価に相当しない公定料金を払うだけでいいから、威張るわりにはカネを落とさない武士たちは、旅龍にとっては、いい迷惑となることが多い。しかし藩によっては、御用宿に助成金を出した。これを「打足(うちたし)銭」といった。

講の宿

旅龍は、経営を考えると飯盛女を置く飯盛旅籠の方が有利だったから、多くが飯盛旅籠となり、まっとうで当たり障りのない平旅龍が少なくなっていった。旅人の中には、飯盛女に煩わされず旅がしたいという者もおり、優良な平旅龍への要望が高まった。そこで、神仏を深く崇拝し、寺社参詣の代参者を多く出す各種の「講」では、良心的な旅籠屋を「定宿」に指定するようになった。いわば協定旅館である。

一九世紀初頭に成立した浪花講は、大坂と江戸の町人が講元となったもので、「人旅でも安心して宿泊できる旅龍を定宿と指定する講であった。利用者は、浪花講の定宿帳を購入し、それに掲載されている旅龍を選んで宿泊した。もし、飯盛女を勧めたり、租略な扱いをして苦情があった場合は、講から除外するなどの措置もとった。その後、三都講、東講など、いくつかの講が成立し、旅人の便宜をはかった。旅龍の方も、宿泊者確保のため、こうした講の定宿となることに努めた。

飯盛女

宿場の旅龍で食事の給仕をする女性であるが、売春婦の役割も果たした。江戸時代、売春が公認されていたのは吉原などの遊廓だけだが、公用の人馬を提供する任務を帯びた宿場には、遊女を置くことも許されていた。万治二年(一六五九)、東海道宿場における遊女禁止令を発令した。飯盛女はそれに代わって登場したものである。

寛文二年(一六六二)、幕府は、飯盛女に華美な服装の着用を禁じ、木綿以下の質素なものを着用している場合は黙認する方針をとり、享保三年(一七一八)には、旅籠一軒につき二人の飯盛女を置くことを公許した。飯盛女は、旅人だけでなく、近くの住民や馬で人や荷を運ぶ馬方などの相手もしたので、実際にはそれ以上の女を置く旅龍が多く、大きな宿場だと遊廓街のような様相を呈するようになった。千住・板橋・品川・内藤新宿の江戸四宿は、数百~一〇〇〇人以上もの飯盛女がおり、ここでは「宿場女郎」と呼ばれた。

お伊勢参り

三重県・伊勢にある伊勢神宮に参拝する「お伊勢参り」は、江戸時代の庶民のあこがれだった。一七世紀初東でも、年間数十万人がお伊勢参りをしたと推定されている。それを全国に広めたのが、伊勢の御師と呼ばれる神職である。熊野神社や富士浅間神社などにも御師いたが、これは「オシ」と発音し、伊勢だけは「オンシ」と発音する。

江戸から伊勢までの往復は二四日ほどだから、宿泊費と小遣いが一日四〇〇文として、一両二分ほどで済む。しかし、御師を頼まないと、神宮参拝すらままならない。御師を頼めば、神楽奉納の初穂科や祝儀など、一グループで数十両もの出費となる。このため、伊勢溝を組織し、積み立てをしてお伊勢参りをした。くじをして当たった何人かが代表して行く代参(だいさん)も、盛んだった。この方式を指導したのも御師である。伊勢に行くと、御師の案内で外宮、内宮に参拝し、御師の大邸宅で神楽などをあげてもらい、豪勢な料理を饗される。神宮参拝の後は、古市の遊廓に泊まり、遊女たちの踊りを楽しんだり、朝熊山に登って金剛証寺を参拝したり、二見浦を回った。

一生に一度あるかないかの大旅行であったため、伊勢での金遣いは、かなり荒いものとなった。御師の方でも、駕籠を出して案内したり、お札や多くの土産物を持たせたりするなど、お伊勢参りを満足させるさまざまなサービスの提供をした。

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