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江戸の通貨

江戸時代初期の金・銀の産出量は、相当なものであった。とくに、銀は世界でも屈指であった。16世紀半ばには灰吹(はいふ)きの精錬法が伝わり、鉱石の製錬技術が進展した。江戸幕府は金貨・銀貨・銅銭の鋳造を行い、貨幣経済を発達させた。これにより、従来の物々交換に代わって貨幣による市場が発達し、人々には富の蓄積が進み、富裕町人も登場するようになった。そのため、市場経済が本格化し、さまざまな生業が勃興発達した。

三貨

江戸時代以前は、外国からの渡来銭である永楽通宝(えいらくつうほう)などが流通していた。しかし、正式な貨幣の流通はなく、一部で徳川氏などが小判や一分金を発行していたのみである。他は砂金や銀塊・米などが代用されていた。大判に関しては、豊臣秀吉がすでに天正一六年(一五八八)、後藤徳乗に命じて製造していた。しかし、これは儀礼用で市場に出回ったものではなかった。表面に墨による極めが肉筆で書かれていたので、墨判とも呼ばれる。徳川家康も、領国での小判には「武蔵」の墨判をなしていたので、「武蔵墨判小判」とも言った。

江戸時代に通用した貨幣は、大判、小判、一分金などの金貨、丁銀や豆板銀などの銀貨、寛永通宝や天保通宝などの銅貨の三種類があり、これを三貨といった。

金貨は、小判一枚を一両とする計数貨幣、銀貨は貫や匁などの重さを単位とする秤量貨幣(しょうりょうかへい)、銅貨は銭と呼ばれ、寛永通宝一枚が一文、天保通宝は一枚一〇文だった。銭一貫文は一〇〇〇文であるが、九六〇枚で銭一貫文とする慣行があった。関東地方ではは金貨、関西地方では銀貨が流通の中心だったが、両替商がそのときの相場によって交換した。

江戸時代初期は、金一両は銀五〇匁、銭は四貫文で金一両とされたが、金高が続き、元禄一三年(一七〇〇)から、金一両=銀六〇匁=銭四貫文の公定レートが制定され、天保一三年(一八四二)まで続いた。このころ、銭相場もずいぶん変動し、金一両が銭六貫文ほどになった。


金貨・大判・小判

慶長小判

金貨は一枚一両の小判が基本通貨の計数貨幣で、一両の半分の二分金、四分割した一分金、さらに一分を半分にした二朱金、四分割した一朱金があった。小判は、金座で鋳造され、幕府御金改役・後藤庄三郎の極印が押された。小判を含めた金貨の品質は、幕府が最初に発行した慶長金銀が最も良質で、元禄期(一六八八~一七〇四)に勘定奉行・荻原重秀によって質の悪い貨幣に改鋳され、正徳期(一七一一~一七一六)に元の慶長金銀の品質に戻された。その後、享保(一七一六~三六)、元文(一七三六~四一)、文政(一八一八~三〇)、天保(一八三〇~四四)、安政(一八五四~六〇)と貨幣改鋳が繰り返され、品質は悪化した。贈答用に用いられる大判は、元は一〇両の重さだったが、江戸時代中期には七両二分替えとされた。しかし、元文の改鋳以後は、大判相場が高騰した。

日本銀行金融研究所貨幣博物館では、「小判一両が今のいくらに相当するか?」という質問に対して、「江戸時代中期の金一両(元文小判)を、米価なら約四万円、大工の手間賃なら三〇万~四〇万円、蕎麦代金なら十二万~一三万円」と換算している。総じて江戸時代の米価は安値になっていくので、小判一枚は、感覚としては、少なくとも一〇万円以上の価値があり、庶民がなかなか手にすることはできないものであった。武家奉公人の年間給金の上限は二両二分に定められており、一両を四〇万円として換算すると彼らの年収は一〇〇万円となり、おおむね妥当な額となる。庶民感覚としては、このあたりだったのではないかと推測される。


銀貨

二朱銀

銀貨は、重さで通用する秤量貨幣である。丁銀や豆板銀などの種類があり、その品質は、金貨とともに行われた何度かの改鋳のたびに変動した。貨幣の単位は、貫と匁で、一匁は約三.七グラムで、一貫目は一〇〇〇匁で三七五〇グラムとなる。匁は目とも略され、たとえば一〇〇匁のようなきりのよい数字のときは一〇〇目と表示する。なお、一匁の一〇分の一は一分である。

金貨と銀貨の換算レートは、江戸時代初期には銀五〇匁で金一両だったが、次第に金高が進み、元禄一三年(一七〇〇)には金二両=銀六〇匁の公定レートが定められた。逆に換算すれば、銀一貫目が金一六両二分一朱ほどである。しかし、その後、安永元年(一七七二)、銀貨八枚で小判一両に相当すると表示された良質の南鐐二朱銀が鋳造された。これは、金に代わって適用する初めての計数措幣の銀貨であった。これは支払いに便利であったことから、よく流通するようになり、かえって金を退蔵するという間題を起こした。

銅貨・銭

寛永通宝

銭は銅貨で、江戸崎代初期、寛永通宝が鋳造されるまでは、永楽通宝などの中国銭が通用していた。しかし、品質がまちまちで、質の悪いものは、支払いや商品取引の決済などの際に低く算定される撰銭(えりぜに)が行われて流通に不便であったことから、幕府は、寛永一三年(一六三六)、江戸と近江坂本で新銭の鋳造を開始し、翌年からは水戸、仙台、
備前、長門などの諸藩にも同じ品質で銭を鋳造させた。これが寛永通宝である。その後、諸藩での鋳造は禁止され、幕府が鋳造権を独占した。寛永通宝には中央に四角形の穴が開いており、鳥目に見えることから、銭のことを「鳥目」ともいった。また、お金のことを「おアシ」というのは、足尾銅山で鋳造された寛永通宝の裏に「足」の字があったためである。

銭の単位は文だが、銭一〇文を一疋(ひき)という慣行もあった。贈答用の金一分を金一〇〇疋ということも行われたが、これは銭一〇〇疋(一貫文)が金一分に相当したことある。おそらく、金一分と書くより、金一〇〇疋と書く方が多額であるような感じがしたからであろう。なお、江戸時代の銭は寛永通宝だけではなく、鉄銭や真鍮(しんちゅう)四文銭も鋳造され、天保六年(一八三五)には、一枚で一〇〇文に通用する天保通宝も鋳造された。これらは、銭貨の不足が下層庶民の生活をおびやかしたことによる措置だった。

千両箱

江戸時代、金貨を収納する箱を千両箱と呼んだ。実際には、一〇〇〇両だけではなく、五〇〇両入り、二〇〇〇両入りのものもあり、小判を収納する箱、二分金や一分金を収納する箱もあったで、形もまちまちだった。ただし、通常、一箱に一〇〇〇両を入れるものが多いことから、金銀の収納箱を俗に千両箱と呼ぶようになったのである。

箱の材質は、松や樫など堅い木製で、周辺や中央に鉄製の枠や帯金を付け、すべて錠が付いていた。小判一両は、元は四.七六匁(約一八グラム)であるが、元文小判だと三.五匁(約二二グラム)になるから、一〇〇〇枚として一三キロ、箱の自重を加えると一七キロほどになる。

この重さでは、テレビの時代劇などでよく見られるように、千両箱を小脇に抱えて屋根から屋根に飛び移ることは困難だっただろう。江戸時代の盗賊・鼠小僧次郎吉は、武家屋敷に忍び込むと、縁の下などに隠れ、女中のいる奥向きの箪笥などから、二〇両、五〇両と金子を盗み取っていた。ただし、中には幕府の金蔵に侵入し、二〇〇〇両入りの千両箱二箱を盗み出した盗賊もいる。


両替商

江戸幕府は、金貨、銀貨、銅貨の三貨制度をとっていたので、金貨と銀貨、あるいは金貨・銀貨と銅貨の交換を行う両替商が必要とされた。江戸時代初期の両替商は、金座や銀座の近くに店を構え、地方貨幣と幕府鋳造の貨幣の交換を行い、江戸の貨幣の統一を促進した。「江戸の金遣い」「大坂の銀遣い」といって、東国は金貨、大坂は銀貨が流通していたので、江戸と上方の商品収引の決済にあたっては、金貨と銀貨の交換比率が間題となった。

幕府は、金一両=銀五〇匁=銭四貫文の公定レートを定めたが、実際は交換比率が変動した。資力のある両替商は、相場は見合わせて金銀貨の交換を行い、その他に貸付、大坂・京都との為替取引、預かり、諸手形の発行など、現在の銀行業務と同様な業務を担当した。主に金銀と銭とを交換する業を銭両替、後者の金融業をも扱う業を本両替と言う。両替の手数料は、大を小にくずす切賃と、小を大に統一する打貸とから成る。

このほか、金銀貨と銭の交換を行う脇両替があった。橋のたもとなどで店をひろげ、旅行者の少額の金銀貨を銭に替える零細な業者もいた。本両替は、元禄(一六八八~一七〇四)のころ、大名貸しに深入りして没落し、鴻池や三井などの新興の商人か興した両替商が中心になった。

為替・飛脚問屋

大坂の劇作家・近松門左衛門作の『冥土の飛脚』を見ると、一八世紀初頭には、九州から関東、東北におよぶ飛脚問屋の流通ネットリークができていたことがわかる。飛脚問屋が扱う捕物は、手紙のほか、さまざまな商品や金子かあり、主人公の忠兵衛は、遊女・梅川に入れあげ、友人に届けるはずの江戸の米問屋の為替金五〇両を使い込んでいる。この時代には、すでに為替が通用しているのである。為替は、始めは江戸小船町の米問屋が発行したものとされている。飛脚問屋は、為替業務を行い、一〇〇〇両を超える金銭を扱っていた。もし途中で盗賊等に遭遇しても、大阪一八軒の飛脚問屋で弁済することになっていた。

もともと飛脚問屋は、絹や木綿といった商品の集配を行い、宿継ぎで荷物を運送した。江戸では定飛脚問屋、京都で順番飛脚問屋、大坂では三度飛脚問屋があり、三者は一体となって江戸、京都、大坂の物流を担ったのである。京都や大坂の飛脚問屋は、大規模な呉服店の一部門が独立して成立したものが始まりだった。大坂の飛脚問屋は、木綿問屋と灘の酒造業者が後援していた。つまり、三都の大資本が、物流業者を育てたと考えられる。江戸の飛脚問屋は、日本橋室町二丁目と三丁目の横町である瀬戸物町に並んでいた。反対側は三井両替店のある駿河町、さらに行けば、両替町に金座があった。このあたりでは、千両箱を車に積み、あるいは棒で運び、毎日一〇万両程の金が行き交っていたという。

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