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外国との関係

オランダ商館

オランダ商館
輸出する銅をあらためる役人とオランダ商館『唐蘭館絵巻』

オランダ東インド会社の日本支店。オランダ船が最初に日本にあらわれたのは慶長五年(一六〇〇)のことです。この年の3月、オランダの商社が派遣したリーフデ号が、インドに向かう途中に嵐にあって豊後の臼杵湾(大分県臼杵市)に漂着しました。百数十人いた乗組員のうち生きのこった者はわずか二四人で、そのなかに、のちに徳川家康の外交顧問になるイギリス人ウイリアム・アダムズ(のちの三浦按針)がいました。これが日本とオランダの関係の始まりで、同一四年(一六〇九)には、オランダ東インド会社の船二隻が来航し、徳川家康の許可を得て平戸に商館を設けた。平戸における商館は、貿易も行ったが、その比重は軽く、東シナ海におけるスペインやポルトガルとの覇権争奪のため武器や食料を購入するという、戦略拠点としての色彩が濃かった。

寛永一八年(一六四一)、オランダ商館は、日本から追放されたポルトガル人が居住していた長崎の出島に移転を強制される。ただし、日本貿易の最大のライバルだったポルトガル人が日本から去ったため、オランダ商館の貿易量は飛躍的に拡大した。オランダ貿易の本質は、中国と日本の中継貿易で、輪出品は銀、次いで銅、輸入品は絹織物や生糸が中心だった。

カピタンと呼ばれるオランダ商館長は、毎年、のちには三年に一度、挨拶のために江戸に上った。江戸時代中期以降、蘭学が盛んになると、オランダ人と日本の学者の交流も深まった。オランダ人は、日常は出島を出ることを禁じられていたが、安政二年(一八五五)以降は、長崎市内を自由に散歩することが許されるようになった。

バテレン

キリスト教の宣教師。ポルトガル語の「パードレ(padre 司祭)」が「伴天連」と表記され、それを日本語読みとしたもの。キリシタンの間では、「Pe」と書かれた。司祭に叙任されない修道士はイルマンという。日本に来た宣教師が所属した修道会は、ポルトガル系のイエズス会のほか、スペイン系のフランシスコ会、ドミニコ会、アウグスチノ会だった。このうち、最大のものがフランシスコ・ザビエル以来布教に従事したイエズス会である。ポルトガル人、スペイン人のほか、国家として統一されていなかったイタリア人も多かった。

天正一五年(一五八七)、九州を平定した豊臣秀吉は、長崎の地がイエズス会に寄進されていることを知り、バテレン追放令を出した。このため、バテレンたちは、九州を中心に全国各地に潜伏することになった。イエズス会は秀吉を刺激しない方針をとったが、新たに布教に参入したスペイン系の修道会は活発な行動をとったので、慶長元年(一五九六)の「二十六聖人殉教」のような事件も起こった。江戸幕府成立後、禁教令が強化され、バテレンや信者に多くの殉教者を出し、三代将軍・家光のころ、バテレンは日本から消滅した。

出島

カピタン部屋
カピタン部屋での食事『唐蘭館絵巻』

江戸時代、長崎に設けられた人工の島で、外国人居留地とされた。日本では「でじま」とも「でしま」ともいうが、外国の記録では「でしま」である。元亀二年(一五七一)の開港以来、来航したヨーロッパ人は長崎の町に居住していたが、厳しい禁教令を敷いた江戸幕府三代将軍・家光の時代、長崎の町人に出島を築かせ、寛永一三年(一六三六)、ここにポルトガル人を収容した。面積は四〇〇〇坪弱で、家賃として銀八〇貫目を納入させた。寛永一六年(一六二九)、ポルトガル人を追放した後は空き家となったが、同一八年(一六四一)には平戸藩内に設けられていたオランダ商館を出島に移転させ、家賃五五貫目を納入させ、オランダ貿易を幕府直轄とした。

出島には、カピタンとよばれた商館長のほか、商館員と医者など15人くらいが生活してるカピタン屋敷をはじめとするオランダ人の宿舎や庭園、家畜小屋のほか、オランダ通詞(通訳者)や貿易に従事する長崎町人の部屋もあった。オランダ人は、役人警護のもとでしか出島外に出ることは許されなかった。出島に入ることができるのも、長崎奉行所の役人のほか、通詞や特定の町人、および遊女に限られた。



唐人屋敷

長崎における中国人の居留地。日本では、中国人のことを唐人と称し、戦国時代(一四六七~一五七三)には九州地方に盛んに来航して貿易をしていた。今でも、九州各地に唐人町という町名が残っている。寛永一二年(一六三五)、幕府は中国船(唐船)の来航を長崎に限定した。このため、長崎は、中国人が来航する唯一の貿易港として栄えた。中国人は来港すると、長崎の町中に寄宿して貿易を行った。宿を貸す町人は、貿易額に応じて口銭(手数料)を取ったので、富裕化した。また、中国人も長崎に屋敷をもち、多くの使用人を抱えるようになった。長崎奉行は宿を貸す町人だけが利益を享受するのを改め、町人が居住する町にも口銭の利益を配分するようにした。

天和三年(一六八三)、清朝は遷海令(せんかんれい・大陸封鎖)を撤廃して海外貿易を自由化した。中国人の長崎への来航は急増し、銀の流失が深刻な問題となった。元禄二年(一六八九)、幕府は、十善寺御薬園の地に総工費銀六三四貫目余をかけて中国人居留地を造った。これが唐人屋敷で、面積は当初八〇〇〇坪、のちに畑地なども加えて九〇〇〇坪ほどになった。唐人屋敷は、堀で厳重に隔離され、中には多くの家屋が立ち並び、現在も残る天后堂や土神堂などがあった。唐人屋敷に入ることのできる日本人は、役人や許された特定の商人のほか、遊女だけであった。

通詞・通事

ともに江戸時代における通訳。オランダ語の通訳をする者は「通詞」、中国語の通訳をする者は「通事」と表記された。平戸時代から長崎時代初期のオランダ商館で媒介となる言語はポルトガル語だったが、次第にオランダ語となった。通詞・通事の身分は、長崎の地役人で、通訳業務だけでなく、幕府からの法令の伝達、外国人の管理統制、貿易業務などに関与した。

通詞の定数は、大通詞四人、小通詞四人、稽古通詞若干名で、通事も同様だった。一八世紀になると、それぞれの階級に定員外の者や見習が置かれ、人数は増加した。通詞は、ポルトガル人やオランダ人に仕えて通訳業務を行った日本人の子孫で、三〇余姓、通草は亡命した明人の子孫が多く、四〇余姓あり、ともに世襲された。また、貿易業務の下働きをする者の中には、外国語を習得する者がおり、内通詞、また内通事とされた。内通詞(内通事)は正規の通詞(通事)にはなれなかったが、仲間を結成することが認められ、公認された組織となった。通詞では科学技術や蘭学、通事では詩や書に大きな業績を残す者も輩出した。

隠れキリシタン
拷問にかけられるキリシタン信者たち

隠れキリシタン

慶長十八年(一六一三)一二月、徳川家康がキリシタン禁令を出し、二代将軍・秀忠、三代将軍・家光の時代の弾圧により、キリシタンの組織は壊滅した。しかし、キリシタンの一部は、宣教師も教会ももたず、キリスト教の信仰を維持した。そうした集団や個人を隠れキリシタンと呼ぶ。

隠れキリシタンは、平戸、生月島、外海、五島、長崎などで、江戸時代を通じて信仰を維持し、現在まで続いている。ただし、宣教師もなく長年信仰を続けてきたため、キリスト教の教義から次第に離れ、仏教、神道、土俗信仰と混成して独自の宗教に変化したとされる。信仰の中心は、キリシタン時代から伝えられるキリストの金属板のレリーフやメダル、聖画などで、納戸の奥深く隠したため、納戸神と呼ばれる。五島などでは、慈母観音をマリアの代替物として祀ったので、これをマリア観音ともいう。

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