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キリシタン禁制は江戸幕府による宗教政策の基軸

寛永一四~一五年(一六三七~三八)の島原・天草一揆でキリスト教徒の結束力に衝撃を受けた幕府は、さらに厳しくキリシタンを弾圧していく。一揆の直後は明国船やオランダ船に対してもキリシタンの乗船を禁止。寛永一七年六月には、新たに大目付井上政重をキリスト教弾圧の担当者として宗門改役に任命し、幕領での宗門改の徹底と宗門改帳の作成を命じる。正保三年四月一九日、幕府は諸国にキリシタン探索を命じ、六月には雑司ケ谷薬園(ぞうしがや)の管理をする山下宗琢が隠れキリシタンの嫌疑をかけられるなどの事件が起こった。

踏絵
踏絵

この年は、江戸小石川若荷谷(現・文京区小日向)にキリシタンの牢獄も設置されている。この牢獄は井上政重の下屋敷で切支丹屋敷と呼ばれ屋敷内には牢舎・倉庫・番所を設け、塀を巡らしていた。切支丹屋敷は寛政四年(一七九二)の宗門改役廃止まで使用され、宣教師や信者を収容した。宝永五年(一七〇八)、屋久島に波来したイタリア人宣教師シドッチも、この屋敷で新井白石に尋問を受けている。正保三年は、安芸国広島藩でもキリシタン奉行が設置されるなど、全国的にもキリスト教徒弾圧政策が進められた年でもある。寛永年問に始まった絵踏も盛んで、長崎では毎年行なわれ、幕末まで続けられていた。

島原・天草一揆の衝撃

キリシタンが禁止された理由には、①宣教師の背後にあるポルトガル・イスパニア(スペイン)の軍事力、②神仏への宣誓で成り立っている秩序の崩壊、③キリシタンを基盤とした地域支配、④キリシタンを基盤とした一揆、⑤魔法を操る怪しげなイメージ、といった脅戒があげられるが、そのどれが本質的でどれが副次的であるというのではなく、どれもが禁教の理由であった。

ただし、キリシタンを取り巻く国家・社会のあり方に連動して、これらのうち脅威が強まるものもあれば弱まるものもあり、時代状況に応じて脅威の質は変化した。一七世紀初期では幕藩権力にとって①②③などへの脅威が強く、徹底した弾圧が行なわれたが、一七世紀中~後期には幕藩権力が感じるキリシタンへの脅威は④⑤にシフトしていき、一八世紀以降はとくに⑤が増幅していった。①②③から④⑤に脅威の質が移行していった背景には、ポルトガル・イスパニアとの断絶(前者は寛永一六年、後者は寛永元年)や兵農分離の進展といった状況の変化が考えられるが、決定的だったのは寛永一四年(一六三七)に起こった島原・天草一揆である。この事件は、厳しいキリシタン弾圧により表面上乗教したキリシタンたちが、ふたたび信仰に立ち帰って起こした一揆として知られる。近年の研究では、これを史料上「日本宗」と呼ばれる神仏信仰とキリシタンとの対立の帰結とし、宗教戦争として理解すべきであるとの見方に傾斜しつつある。その妥当性についてはさらなる検討が必要であるが、この事件は、その後の「切支丹」をめぐるイメージに決定的といえるほどの大きな影響を及ぼした。すなわち、イメージのなかで「切支丹」と一揆が強固に結びついたことによって、「切支丹」が既存の秩序を乱す象徴とされていく起点となったのである。

異端的宗教活動の展開

一方、島原・天草一揆のような武力蜂起でなく、地下に潜伏することを選んだキリシタンは、地域秩序に埋没していった。厳しい禁教下という条件のもとで、混緒民俗宗教(シンクレティズム)が進んだことは否定しょうがないが、あくまで隠匿しようとする彼らの姿勢は、決してキリシタンとしての自覚まで失ったわけではないことを示していよう。しかし、潜伏キリシタンの地域秩序への埋没は、キリシタンを判別する指標を忘れさせ、「切支丹」と一揆とが強国に結びつくイメージの影響もあって「切支丹」イメージの貧困化を招いていった。

一般の近世人の宗教活動については、一七世紀中期、全国的に制度化された宗門改により大きな制約を受けるようになったが、毎年「切支丹」でないことを檀那寺(だんなでら)に証明してもらったとしても、人々の宗教的欲求が満たされたかどうかは別次元の問亀である。実際、寺桓関係を結ぶ寺院・仏教とは別に、人々の宗教的活動は活発に行なわれていた。寺檀関係とは直接関係のない、俗人を導師とする宗教活動は、権力が規定する宗教の枠組みからはずれる可能性があるという意味で、権力の側からすれば得体の知れない不気味な存在であった。

一八世紀に入ると、そうした異端的宗教活動に対する警戒はいっそう厳しさを増していき、潜伏キリシタンの既存秩序への埋没と相まって、徐々に異端的宗教活動とキリシタンとの判別が困難になっていった。以上のようなキリシタンをめぐる状況の変化のなかで、一八世紀「切支丹」的なものとして批判する風潮が醸成され、それぞれの地域的な民間信仰や流行神などを含めた民衆の宗教活動に対する規制が強められていった。「切支丹」は権力にとって警戒すべき怪しげな異端的宗教活動を象徴するものとなり、キリシタン禁制は、キリシタンを取り締まるというよりも、既存秩序を脅かす対象を規制する宗教政策に転換していったのである。

平山常陳らに続き長崎で55名処刑

55名処刑

幕府は、長崎西坂で、長崎と大村の牢獄に捕えられていたキリシタン55人を処刑。イエズス会司祭スピノラ(56)、日本人初の司祭木村セバスチャンら宣教師21名と中心的信徒4名は火刑、彼らをかくまった者とその家族30名は斬首刑となった。この大殉教の引き金になったのが、六年七月の平山常陳事件である。台湾近海で外国人2人を乗せた常陳の朱印船を、イギリス・オランダ連合艦隊が拿捕。2人の外国人が宣教師の疑いをかけられ平戸に曳航(えいこう)、日本側に引き渡され、拷問を交えた尋問の末、2人は宣教師であると自白に追い込まれる。この7月13日、2人の宣教師と常陳は火刑に、同乗の商人・水夫12人は斬首刑に処せられた。

家康の死後、将軍秀忠のもとで、幕府のキリスト教への取り締まりは厳しさを増している。昨年8月、幕府は京都でキリシタン52名を火刑に処し、それまで主として宣教師に向けられていた弾圧の手を一般庶民にまでのばした。秀忠の上洛中に実施されたこの処刑は、幕府のキリシタンに対する断固とした態度を表明するものであった。今後、幕府は禁教政策を一層強化する意向で、信徒への弾圧は厳しさを増すばかりだ。

民衆宗教の登場

一方、このころ、異端的宗教活動にも変化がみられた。これらは、一八世紀までは既存秩序への違和感から押し出されてきたところがあったとしても、既存秩序を自覚的に否定するものではなかった。ところが、一九世紀に入ると、意識して既存秩序を否定し、思い切った秩序の転換を求める宗教活動が現われてくる。その延長上に登場したのが、天理教・金光教をはじめとする民衆宗教と呼ばれる新しい宗教活動である。キリシタン禁制の破綻とともに、近世秩序を自覚的に否定する勢力の登場は、キリシタン禁制を基軸とする秩序維持を根底から覆し、新しい秩序維持の方策をめぐるせめぎあいの起点となっていくのである。

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