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一七世紀の日本の出来事

一六世紀の日本は、戦乱の時代であった。天下統一が完成したあとも、豊臣秀吉は明征服の野望を抱き、朝鮮に侵略した。秀吉の死後、豊臣政権は分裂し、慶長五年(一六〇〇)、東西両軍に分かれて、美濃国関ケ原で雌雄を決することになる。一六世紀の最後を飾る合戦であった。

一七世紀の日本は、徳川家康が豊臣秀頼を滅ぼした大坂の陣を除けば大名問の戦争はなく、キリシタン民衆の一揆である島原の乱も半年たらずで制圧された。「天下泰平」の言葉で象徴されるように、まさに「徳川の平和」が完成された時代だったのである。しかし、一七世紀に、戦争の危機がなかったわけではないし、為政者の選択によってはさらなる戦争の時代に入ることも考えられた。それは、一七世紀の東アジアで繰り広げられたヨーロッ パ諸国の勢力争いや、明清交代という中国の大動乱に関与した場合のことである。東アジアでは、ポルトガル・イスパニアのカトリック国とイギリス・オランダのプロテスタント国が勢力争いを繰り広げていた。慶長一四年、平戸に商館を設けたオランダの目的が、戦略拠点の確保のためだったことが指摘されているように、当時の東シナ海は両勢力の戦闘の場であったのである。

二代将軍秀忠は、ヨーロッパ諸国の争いに関与することを避け、武器輸出を禁じ、日本人が傭兵として外国に渡ることも禁じた。日本との貿易を熱望するヨーロッパ諸国は、少なくとも日本近海においては戦闘行為を控えるようになった。

三代将軍家光は、キリスト教の信仰を厳禁し、船の海外渡航を禁じ、日本人が海外から帰国することすら禁じた。外国船との貿易は、長崎・平戸のみに限られた。島原の乱のあと、長崎出島に居留していたポルトガル人追放を議論した際、幕閣はふたたび日本船を東アジアに派遣し、必要物資を調達する必要性を感じていた。しかし、ポルトガル・イスパニア両国と断絶状態にあるなかで日本船を派遣すれば、洋上での戦闘は避けられない。これを回避するためには、日本船の海外渡航は禁止したままとし、オランダとの貿易に頼るしかない。家光と幕閣は、この道を選択した。これが「鎖国」の本質であった。

中国では、女真族の勢力が強まり、活が建国され、明と交代して中国の支配者の地位についた。明の遺臣は、日本に援軍を求める使者を派遣した。秀吉の時代であれば、これを好機として中国に攻め込むという選択もあっただろう。家光は、文書様式などを問題として、ついに援軍を送る道は選ばなかった。秀吉が「日本弓箭(ゆみや)厳しき国」として「武威」を国家の基本原則としたのに比べれば、これは「武威」の放棄に等しい。しかし、家光が「武威」を軽視したのではなく、むしろその道だった。明に援軍を派遣することは可能だっただろうが、もし敗北すれば、それは「武威」の政権の崩壊につながる。つまり家光は、「武威」の立て前を維持するために、敗北の可能性のある戦いは回避せざるをえなかったのである。

西暦 和暦 月・国内の出来事 天皇 将軍 世界の出来事
1600 慶長5 9 関ケ原の戦い。 後陽成(ごようぜい)
(在位1586~1611)
1601 慶長6 1 東海道53宿の確定。伝馬の制。
8 板倉勝重を京都所司代とする。 1602 (蘭)東インド会社設立。
1603 慶長8 2 家康、征夷大将軍となる。江戸に幕府を開く。 家康
(在職1603~05)
1603 (英)ステュアート朝始まる。
1604 慶長9 5 糸割符法を定める。
この年、渡航朱印を交付。
1605 慶長10 4 秀忠、征夷大将軍となる。
1607 慶長12 5 朝鮮使節、初めて江戸へ入る。 秀忠
(在職1605~23)
1607 (英)北米ヴァージニアに植民地を建設。
1609 慶長14 2 島津氏、琉球に出兵。
6 対馬の宗氏、朝鮮と己酉約条(条約)を締結。
7 オランダとの貿易を許可。
1613 慶長18 6 公家諸法度、勅許紫衣の法度を定める。 後水尾(ごみずのお)
(在位1611~29)
1613 (霧)ロマノフ朝始まる。
12 全国にキリスト教禁止令。
1614 慶長19 11 大坂冬の陣。
1615 元和1 4 大坂夏の陣。
5 大坂城落城、豊臣氏滅亡。
6 一国一城令。
7 武家諸法度、禁中並公家諸法度。
1616 元和2 4 徳川家康死去(75)。 1616 ヌルハチ、後金(清)を建国。
8 外国船の寄港地を長崎・平戸に限定。
1617 元和3 2 朝廷、家康に東照大権現の神号を授ける。
3 吉原遊廓の開設。 1618 (独)三十年戦争始まる。
1619 元和5 8 大坂町奉行の設置、大坂城代を置く。主 1619 (蘭)ジャワにパタヴィア総督府を建設。
1620 元和6 6 秀忠の娘和子、入内。
1622 元和8 8 長崎でキリシタン5人を処刑(元和の大殉教)。
1623 元和9 6 秀忠、上洛。
7 家光、征夷大将軍となる。 家光
(在職1623~51)
11 イギリス、平戸の商館を閉鎖。
1624 寛永1 3 スペイン船の来航を禁止。 1624 (仏)リシュリュー、政権を握る。
1626 寛永3 8 家光、上洛。 1628 (英)チャールズ1世、権利請願を承認。
1629 寛永6 7 紫衣事件。
1631 寛永8 6 奉書船制度を開設 明正(めいしょう)
(在位1629~43)
1632 寛永9 1 秀忠死去(54)。 1632 (印)ムガール帝国、タージ・マハルを建設。
12 大目付の設置。
1633 寛永10 3 黒田騒動。 1633 (伊)ガリレイ、宗教裁判にかけられる。
1634 寛永11 5 長崎に出島を設置。
1635 寛永12 5 日本人の海外渡航・帰国を厳禁。
6 参勤交代を制度化。大船製造を禁止。
11 寺社奉行の設置。
1636 寛永13 6 銭座を設置し、寛永通宝の鋳造を開始。 1636 後金、国号を清と改める。
1637 寛永14 10 島原・天草一揆。
1639 寛永16 7 ポルトガル人の来航・居住を禁止(鎖国の完成)。
1641 寛永18 5 平戸のオランダ商館を長崎出島に移す。
1642 寛永19 この年、諸国で飢饉(寛永の大飢饉)。 1642 (英)ピューリタン革命始まる。
1643 寛永20 3 田畑の永代売買を禁止。 1643 (仏)ルイ14世即位。明滅亡。清、北京遷都。
9 江戸で大名火消制を開始。 後光明(ごごうみょう)
(在位1643~54)
1644 正保1 12 郷村高帳・国絵図を作成させる。
1646 正保3 3 日光例幣債の開始。伊勢神宮例幣債の再興。
10 明大・鄭芝竜の援兵要請を拒否。 1648 ウェストファリア条約締結、三十年戦争終結。
1651 慶安4 4 家光死去(48)。 1649 (英)共和制開始。
7 慶安事件、由井正雪自殺(47)。 家綱
(在職1651~80)
1652 第一次英蘭戦争始まる。
1654 承応3 6 玉川上水の完成。
1655 明暦1 4 糸割符制を廃止し、相対貿易とする。 後西(ごさい)
(在位1654~63)
8 宿駅人馬の制。
1657 明暦3 1 明暦の大火(振袖火事)、江戸城太丸など焼失。
9 江戸の商人・職人仲間の独占を禁止。
1658 万治1 9 江戸に定火消役を設置。 1660 (英)チャールズ2世、王政復古。
1661 寛文1 この年、福井藩、銀札を発行(藩札の初見)。 1661 (仏)ルイ14世の親政始まる。
1663 寛文3 5 武家諸法度を改訂(殉死の禁止)。
この年、三都に定飛脚問屋が成立。 霊元(れいげん)
(在位1663~87)
1665 寛文5 7 大名の人質を廃止。 1665 第二次英蘭戦争始まる。
1668 寛文8 7 京都町奉行を設置。
1669 寛文9 2 全国の枡を京枡に統一。
6 アイヌ族長シャクシャインの戦い。
1672 寛文12 7 河村瑞賢、西廻り航路で幕領米を江戸へ廻漕。 1672 第三次英蘭戦争始まる。
1679 延宝7 10 越後騒動(1681まで)。 1673 (清)三藩の乱。
1680 延宝8 5 家綱死去(40)。遺言により、綱吉将軍となる。
1683 天和3 5 三井高利、江戸に両替店を開く。 綱吉
(在職1680~1709)
1683 オスマン朝、第二次ウィーン包囲失敗。
7 武家諸法度を改訂(末期養子の許可)。 清、台湾を領有。
1684 貞享1 8 稲葉正休、大老堀田正俊を江戸城中で刺殺。
1685 貞享2 2 生類憐みの令(1709まで繰り返し発布)。 1685( 仏)ナントの勅令廃止。
1688 元禄1 11 柳沢吉保、側用人となる。 1688 (英)名誉革命始まる。
この年、長崎に唐人屋敷を設置。大坂堂島米市場の設置。 東山
(在位1687~1709)
1689 (英)権利の章典。
1691 元禄4 5 住友友芳、伊予別子銅山を開坑。 英・仏、植民地戦争。
1694 元禄7 この年、江戸十組問屋が成立。 清・露、ネルチンスク条約で国境を定める。
1695 元禄8 8 貨幣改鋳。 (露) ピョートル1世即位。
1697 元禄10 10 全国の酒造高を調査し、酒屋に運上金を賦課。
12 英一蝶、三宅島に配流。
1698 元禄11 この年、長崎会所を設置。
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