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大きく発展した江戸

漢永9年頃の江戸

江戸は、将軍のお膝元として、急速に発展していった。天下を手中にした家康は、諸国の大名たちに、町造り、城の建設、河川工事などを命じた。軍役と同じく、拒否することのできない「天下普請」である。まず日比谷の入り江が埋立てられ、江戸城の前に広がっていた海がなくなる。埋め立ての土は神田山を切り崩した土や運河を掘った時の土が使われた。これで簡単には敵の船が城へ攻めることができなくなる一方、埋め立てで造成された新開地も増えた。新たに掘削された運河は川の流路がつけ変えられ外濠を中心とする堀割とつがった。承応3年(1654)には玉川上水も完成し、上水道も整えられた。全国から集められた材木や石により、江戸城の普請も着々と進行、次第に江戸の町割が形成されていくのである。

清潔な江戸の街

日本橋のにぎわい
日本橋のにぎわい

江戸の町は、幕府が開かれてまもない慶長一四年(一六〇九)には、すでに住民一五万人を擁していた。この年、日本との貿易交渉を行なうために江戸を訪れたイスパニア(スペイン)の前ルソン総督ドン・ロドリゴは、江戸に縦横に張り巡らされた堀が食糧運搬の動脈となり、青物・果実などの市場が多種にして大量の品物を清潔に陳列し、買う者の嗜欲(しよく)刺激していると記述している。

市街は、みな木戸をもち、職業別に分かれていた。ある町には大工が居住し、ほかの職の者はひとりも雑居せず、ある町には「靴」職人、ある町には鍛冶屋、ある町には縫製職人が居住していた。そのほか商家も、呉服屋の集まる町、両替商の集まる町など、江戸の中心部は業種別に軒を並べていた。ロドリゴがとくに驚いたのは、街路の清潔さや家屋の内部の美しさである。尿尿の処理に苦労したヨーロッパの諸都市と違い、江戸の採尿は、江戸周辺農村の肥料として活用されていたので、清潔な街路を維持することができたのである。

江戸の市政と町割

江戸では、町奉行の下に町年寄が置かれ、各町の町名主を統括した。町年寄は、三河から家康に従って江戸に来た樽屋藤左衛門・奈良屋市右衛門・喜多村彦右衛門の三家が世襲で務めた。彼らの住居は御役所と呼ばれ、本町一、二、三丁目にあった。 江戸の標準的な町割は、道幅六丈の縦横の道路に、六〇間四方の土地を区切り、道路から奥行き二〇間を四方から切り取って町人地とした。

町人地は、短冊状に区分され、個々の町屋となった。中央の二〇間四方は空き地で、会所地と呼ばれた。会所地は、土盛りをして造成された町屋よりも一段低くなっており、雨水や下水の排水に利用されたり、ごみ捨て場ともなった。のちに、しだいに埋め立てられ、増大する江戸の人口を収容するために利用されていった。地主は、所有する町屋のうち、道路に面した部分の表店は商家に貸し、路地を通って入る裏店には、九尺二間の狭い長屋を建て、賃貸用の住居とした。また、家主を雇って住民の差配をさせた。

名主は地主のうちの有力者で、家康入国のころからの草創名主を筆頭に、古町名主・平名主などの階級があった。 江戸市政や警察・裁判業務を行なう町奉行所の与力・同心が、わずか南北各二五騎・一五〇人を定員とするにもかかわらず、その業務を遂行しえたのは、町年寄-町名主地主家主の自活組義が義能していたからにほかならない。

江戸の水道

玉川上水
歌川広重『名所江戸百景 玉川堤の花』

江戸の飲料水は、家康が江戸に入った当初、井の頭の池から引水した神田上水を通してまかない、赤坂溜池の水は江戸水道として下町への給水に利用された。承応元年(一六五二)には、急速に拡大する江戸の人口に対応するため、玉川上水開設の計画が立てられた。多摩都羽村から多摩川の水を分け、四谷大木戸まで約四二kmにわたって水路を開削するというものである。工事は一年たらずで開削、通水に成功し、地下に石や木の樋を通して江戸城内をはじめとして、四谷・麹町・赤坂などの高台や芝・京橋方面への給水を行なった。玉川上水は、飲料水以外に、水の乏しい武蔵野台地への灌漑(かんがい)用水としても活用され、新田開発に大きな役割を果たした。

かぷき者の横行

家康から家光までの間は、大名の改易がさかんに行なわれ、その弊害として牢人(浪人)が増加し、京家や江戸に蓋大した。このため、社会不安も高まり、家光の没後には由井正雪の反乱計画(慶安事件)なども発覚した。天下泰平の時代とはいえ、いまだ荒々しい気風は衰えず、江戸では「かぶき者」と呼ばれる無頼の徒が横行した。

「かぶき者」とは、異風の衣装を身に着け、ことさらに粗暴な行動をする者たちで、旗本らの武士にそのような者がおり、町でも遊侠の徒がそれに倣った。これらは旗本奴・町奴と称し、相互に抗争を繰り広げた。その頂点が、明暦三年(一六五七)七月の旗本奴の首領水野十郎左衛門による、町奴の首領幡随院長兵衛の騙し討ち事件である。寛文四年(一六六四)三月、水野は不行跡を咎められ、切腹に処せられた。こうしてようやくかぶき者の横行は鎮静化し、折からの経済発展とともに、武士中心だった江戸は、町人中心の大消費都市へと変貌していく。

明暦の大火

浅草門の惨事

明暦三年正月十八日ひるすぎ、本郷丸山町の本妙寺から出火、二日間にわたって燃えつづけ、家康入国以来、六十七年間に発展した江戸の大半を焼いた。被災区域は大名小路をはじめ神田橋・呉服橋など内堀の諸門、下町では神田・京橋・八丁堀、海手へ飛んで深川・佃島まで焼いた。江戸城も西丸を除き、本九・二の九・三の丸・天守閣などすべて炎上。

とくに悲惨だったのは浅草門で、数万の避難民がどっと押しかけ、大混乱におちたところを頭上から焼かれた。苦しまざれに隅田川へ飛びこみ、無数の溺死体で水面がおおわれた。焼失武家屋敷千二百七十、寺社三百、町屋百二十町、死者十万八千人。この火事、麻布の遠州屋彦右衛門の娘梅野が、上野の花見で美しい寺小姓を見初め、その寺小姓が着ていた紫縮緬(ちりめん)に菊を染めた振袖を作って夫婦あそびをした。恋思いのすえ梅野が死ぬと、両親は心根をあわれんで振袖を菩提寺の本妙寺へおさめた。生臭和尚が無情にもそれを古着屋へ売ったところ、次々他の娘にとり憑き娘は病死、三度まで寺へ寄進され戻ってくる。女の妄執の恐ろしさに、振袖を庭火て燃やしたところ、急に強風が火のついた振袖を吹き上げて大火になった。よってこれを「振袖火事」という。

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