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関ケ原の戦い

関ケ原の戦い

豊臣政権下の最大の大名であった家康は、秀吉死後、五大老筆頭としての地位を利用し、政治を専断した。これに反発する石田三成が軍を起こすのを待って、「天下分け目の戦い」であか関ケ原の戦いは始まる。この戦いに勝利した家康は、二年半後には征夷大将軍宣下(せんげ)を受け、二七〇年に及ぶ政権を打ち立てた。

関ケ原戦の戦後処理

関ケ原の戦いによって軍事的覇権を確立した家康は、石田三成らを斬首し、名目上の西軍の大将であった毛利輝元を周防・長門二国に押し込めるなど戦後処理を進める。最大の問題は、いまだ家康の主君が、名目上は秀吉の遺児秀頼であることだった。秀頼を差しおいて武家の棟梁となるためには、秀頼以上の権威が必要である。家康は、秀頼に孫千姫を嫁がせて豊臣家を懐柔する一方、外様大名である藤堂高虎らの勧めによって将軍宣下を受けるという方策をとった。こうして家康は、豊臣政権の五大老という地位を脱することができたのである。

大坂の陣と豊臣家の滅亡

大阪夏の陣

家康が将軍になると、秀頼も内大臣となり、世間では秀頼が早晩関白になるとのうわさもあった。慶長一二年(一ハ〇七)、家康は、三男の秀忠に将軍職を譲る。将軍職は徳川家で世襲し、天下の権を豊臣家に返すつもりはないという意思表明であった。しかし、諸大名は、江戸へ参勤する一方で、大坂の秀頼へも挨拶する姿勢を崩さなかった。当時は、加藤清正や福島正則ら、豊臣家恩顧の大名も健在であった。こうした状況を脱するためには、秀頼を完全に屈服させるか、あるいは豊臣家を滅亡させるしか手がない。家康は、方広寺大仏殿の鐘銘を問題とし、豊臣家と戦端を開いた。この大坂の陣により、豊臣家は滅亡した。

幕府の大名統制

江戸幕府の大名配置の原形は、関ケ原の戦いの戦後処理の過程で形成された。御三家を筆頭とする徳川家一門は、尾張・紀伊・水戸・越前などの要所に配され、外様大名は、東北・中国・九州など遠方の地域に据えられた。大坂は、一門の松平忠明に与えられたが、その後直轄地となり、大坂城代と大坂町奉行が置かれた。京都所司代は、京都の二条城にあって朝廷を統制するとともに、幕府の出先機関として西国全体ににらみをきかせた。京都・奈良・長崎・駿府・佐渡など重要な地域は直轄地となり、遠国(おんごく)奉行が置かれた。幕府は、領地から大名を移動させる転封(てんぼう)の命令を多発し、幕府が定めた法律に違反した場合は改易を命ずることもあった。

福島正則は元和五年(一六一九)、広島城の無断修築を咎められて改易となった。加藤清正は無事だったが、その子息広の代に謀叛(むほん)を計画したかどで改易に処せられた。

また、一門の越後国高田藩主松平忠輝や越前国福井藩主松平忠直も、改易や隠居処分となった。諸大名は、改易や転封に処せられる口実を与えないため、幕府の意向をうかがい、幕府の好む態度をとることに専念した。こうして幕府に逆らおうとする大名はいなくなった。元和ごろまでは、諸大名の妻子は国許にいる場合も多かったが、これも自発的なかたちをとって江戸に集められた。三代将軍家光は、寛永一二年(一六三五)、武家諸法度において参勤交代を制度化した。こうして幕府は、中央集権的な政権を成立させた。

幕府中枢部の動向

元和二年、家康が死ぬと、秀忠に権力が移った。外交僧金地院崇伝、豪商の茶屋四郎次郎ら家康のプレーンであった者たちは、政権の中枢から遠ざけられていった。そうしたなかで、家康の側近本多正信の子で秀忠に仕えていた本多正純は、秀忠政権下でも重要な地位にあった。しかし元和八年、正純は、出羽国山形藩主最上家の改易で江戸を散れた際、突然改易を命じられた。秀忠の意向に背く言動が目立ったというのがその罪状である。

正純改易後に権力を握ったのは、秀忠がもっとも信頼する土井利勝だった。利勝は、家康の落胤(らくいん)とされることもあるなど出自すらはっきりしないが、幕府政治は利勝ひとりで決まるとの評判で、諸大名はこぞって利勝を頼るようになる。ところが、寛永九年、秀忠が没すると、利勝の地位にも陰りが生まれる。家光は、利勝にだけ権力が集中することを嫌い、政務は年寄(のちの老中)の合議とすることを義務づけた。月番制や評定所寄合もこのころ始まった。同一五年、利勝と彼に匹敵する権威をもった酒井忠勝は、日常の政務を免除され、松平信綱・阿部忠秋・阿部垂次の三人が老中として政務を行なうことになる。家光側近の者が、政治の中枢に据えられることになったのである。

家光の時代には、幕府の職制がほぼ完成した。それまでは将軍の命令を伝達する側近的な存在であった年寄が、中央政権の閣僚としての地位を確立し、旗本でも幕府の重要な役職に就いていれば、大名に対して対等以上の権威をもつようになったのである。

東照大権現と東照宮

死後当初、駿河国久能山に葬られていた家康は、日光に改葬され、東照社が建てられた。家康は、東照大権現として神となり、日本の守護神的地位を与えられた。家光は、祖父の家康を景仰し、家康のために日光東照社の大改築を行ない、今日見ることができる豪華絢爛な社を完成させた。東照社は、正保二年(一六四五)、天皇から宮号宣下を受け、東照宮となった。天皇は毎年、例幣使(れいへいし)を派遣した。

また、徳川家と関係の深い大名も、領内に東照宮を勧請することを願い、各地に東照宮が建設された。これらのなかには、民衆の信仰が篤いものもあった。ただし、こうした宗教的な要素ももった江戸幕府であるが、その支配体制は世俗的な政治支配であり、実質的な権力をほとんどすべて掌握してはいたが、権威の点では将軍宣下を行なう天皇に依存する部分があった。こうした弱点は、幕府成立期から一八世紀後半の安定期にはなんの問題もなかったが、一八世紀末に至って外国船が日本沿岸に出没するようになると、幕府のアキレス腱となった。

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