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赤穂事件と綱吉政治

赤穂浪士

江戸城松の大廊下で、潘麿国赤穂藩主浅野内匠頭長矩が高家筆頭吉良ヒ野介義央に斬りつける事件が起こる。元禄一四年三月一四日のことである。同日、浅野家は改易、内匠頭は切腹となるが、吉良の処分はなかった。主を失った赤穂浪士270余名は、藩を去る者、仇討ちを誓う者などさまざまだったが、筆頭家老大石内蔵助良雄は、急進派を慰留しつつ、御家再興をめざす。しかし、その望みはかなわず、翌年十二月一四日、大石率いる47名が吉良邸討ち入りを決行。彼らは、浅野内匠頭のみ切腹という幕府の判断を「片落ち」とし、吉良が生きているかぎり、武士の面目が立たないと考えたのである。

翌一六年二月四日、足軽の寺坂吉右衛門を除く46名は切腹。吉良左兵衛義周(義央の養子)は、信濃国諏訪藩諏訪家に御預けとなる。のち、義周は御預け中に没し、吉良家は断絶。討ち入りから切腹まで1か月半、幕府が判断に苦慮したことがうかがえる。

赤穂浪士の吉良邸討ち入りは元禄一五年の将軍は五代綱吉であった。後世「元禄時代」と称されるこの時代は、著しい経済的発展の恩恵を受け、人生は浮かれて過ごすべきだという享楽的な世相だった。そうしたなかにあって、武士の意地を通した赤穂の浪人は、一躍庶民の英雄となった。

道徳を法で強制した綱吉

綱吉

延宝八年(一六八〇)、将軍となった綱吉は、代官の粛正など幕政の引き締めを行なう一方で、学問を好み、林信篤(鳳岡「ほうこう」)に大学頭の官名を与えて、湯島に建てた聖堂(孔子顧)を管理させ、江戸城に大名を集めて、みずから儒学の講義を行なった。また綱吉は、仏教にも帰依し、その影響で貞享二年(一六八五)以降、犬や鳥獣の極端な愛護令である生類憐みの令を出した。この法令の一環である捨子保護令などを見ると、弱者保護ということで理解できる法令であるが、違反者には死罪を含む厳しい処罰があったので、不満をもつ者が多かった。

幕府の成立期には豊かであった財政は、金銀の産出量の減少や、明暦の大火(一六五七年)後の江戸の復興費、綱吉による寺院の造営や改築などのため、しだいに窮迫しはじめた。 勘定吟味役(のち勘定奉行)の荻原重秀は、慶長金銀を改鋳して品質の悪い元禄金銀を発行し、幕府の歳入を増やした。この政策は、結果として貨幣の量を増やし、お金が世の中に行き渡るようになったため好況にはなったが、同時に物価の上昇を招き、武士や庶民の生活は苦しくなった。

将軍を国王とした新井白石

新井白石

宝永六年(一七〇九)、綱吉を継いで六代将軍となった家宣は、生類憐みの令を廃止し、儒学の師であった新井白石と側用人間部詮房とを重用する政治を行なった。白石は、幕府の儀式や典礼を整え、将軍の権威を高めるとともに、朝鮮に対して将軍の地位を明確にしようとした。それまで朝鮮の国書に「日本国大君殿下」とされていたのを朝鮮国王と対等の「日本国王」に改めさせ、丁重すぎた朝鮮通信使の待遇を簡素化した。しかし、もともと「大君」号は日本側から提案したもので、八代将軍吉宗はこれをもとに戻した。朝廷に対しては、世襲親王家である閑院宮家(かんいんのみや)を創設するなど、関係の改善に努めた。財政政策では、新たに正徳金銀を発行して貨幣の品質を戻したが、再度の貨幣改鋳は経済に混乱をもたらした。

豪商たちの盛衰

それまでの大商人は、大名の御用を務めることで利権を拡大し、格式を上昇させできた。しかし、元禄期には、商売の工夫によって巨富を得る者が輩出した。紀伊国屋文左衛門は、木材などの投機的商法で巨利を得た。元禄一三年、豪奢な生活が幕府の忌諱(きい)に触れ没落するが、元禄期を象徴する豪商であった。

三井高利は、呉服を現金売りする「現銀掛値なし」の新商法が成功し、越後屋の基礎を築いた。高利の成功は、呉服屋に買い物にくる庶民層の増大に支えられていた。そのころ、大名たちは、江戸での消費生活のため経済的に困窮していき、城下の御用商人や三都の両替商などに、多額の借金をするようになった。大商人は、大名貸しを行なうことで、苗字・帯刀を許され、扶持を与えられるなど武士への身分上昇を果たした。しかし、新興商人の三井家や鴻池屋は、貸し倒れの危険を考え、大名貸しには積極的な姿勢は見せなかった。

実証的な学問の発達

それまで学問は、公家や僧侶にほぼ独占されていたが、元禄期には、武士や庶民の問から多くの学者が出て、日本の社会の現実を見つめ、独創的で実証的な学問を発達させた。儒学の分野では、朱子学や陽明学の理論にとらわれず、直接『論語』や『孟子』など古典の原文を研究しようという『古学』が提唱された。

伊藤仁斎・東涯父子は、京都の町人出身で、京都堀川に私塾古義堂を開き、『論語』などを原文に即してわかりやすく解釈した。江戸でも、浪人であった荻生徂徠(おぎゆうそらい)が、私塾蘐園を開き、中国古代の言語を研究して解釈を試みた。徂徠は、のち柳沢吉保や徳川吉宗の政治顧問として用いられ『政談』を著わした。こうした現実政治への提言は学者の新しい動向で、徂徠の弟子太宰春台も、武士の商業活動の必要性を説いた。

歴史の分野でも、新しい動きがあった。林鵞峰(はやしがほう)は、幕府の命令で編年体の日本史『本朝通鑑』を完成させ、水戸の徳川光閲は、多くの学者を集め、『大日本史』の編纂を行なった。加賀藩の前田綱紀は、古典籍や古文書に関心をもち、全国的な収集事業を行なった。光田と綱紀は伯父・甥にあたったこともあり、親密に情報を交換し、書物の貸借なども行なった。

新井白石は、家宣に歴史を講義するため和文の『読史余論』を書き広く読まれた。また地理学や外国事情にも興味をもち、『西洋紀聞』や『采覧異言』を著わした。日本古典の見直しも進んだ。『万葉集』は、大坂の僧契沖が厳密な文献学的方法で研究し『万葉代匠記』を著わした。『源氏物語』や『枕草子』も、のちに幕府の歌学方に任じられる北村季吟によって注釈書が著わされた。こうした動きは、社会の安定と日本の歴史や文化への関心の高まりをよく示している。

理科系分野の学問の発達

農学の分野でも、宮崎安貞が『農業全書』を著わし、農作物の新しい栽培技術を紹介した。こうした技術が、書物の形になった背景には、指導的農民の識字力の向上があった。薫草の研究を基礎に置く本草学では、月原益軒が『大和本草』を、稲生若水が『庶物類纂』を著わした。

土木工事や商業の発展によって発達した和算では、関孝和が出て、筆算代数式とその計算法や円球に関する計算などで優れた業績をあげた。天文学では、渋川春海(安井算哲)が、従来の暦を観測によって修正し、貞享暦をつくった。文化系学問だけではなく、理科系分野でも実証的な学問が発達したことは、中世以来の迷信的な物の考え方が消え、近代的な人間が育っていたことを物語っている。

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