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吉宗の政治スタイル

八代将軍吉宗により断行された諸政策の総称が、享保の改革である。主な政策をまとめると次のようになる。
将軍の権力を強め、足高(たしだか)の制などにより幕府の官僚体制を整備。旗本・御家人の財政難救済のために上米の制を実施。幕府財政の窮乏を立て直すため、耕地を増やして年貢増収を図り、新田開発を奨励。甘藷や菜種など新作物の栽培奨励にも積極的に取り組む。薬を広めたり、朝鮮人参の国産化を成功させて一般にその栽培を奨励したりもしている。こうした政策の裏では、徹底的な調査が試みられていた。古代律令制以来の全国規模の人口調査、諸国の薬草・産物などの調査を行なっているのである。

また、青木昆陽らを登用し、有力戦国大名や徳川家に関する古文書の調査、紅葉山文庫の目録づくり、幕府が過去に出した諸法令をまとめる(「御触書集成」)など、古文書を重視した。これは、吉宗が実学を重んじていたことの証である。公事方御定書などを作成して法令類を整備したことなども、同様の意図から行なわれたこととされる。

しかし、米価の安定化、通貨の統一、商業資本の取り締まりなど、経済の安定化に努めたものの、享保一七年(一七三二)の大飢饉のころより米価政策は破綻。改革当初の目標とは180度違う質を落とした貨幣(文字金銀)を出さざるをえなくなるなど、頓挫した面も多かった。

「将軍吉宗」の誕生

徳川吉宗

紀州家の四男として生まれた吉宗。長兄綱教は、五代将軍綱吉の娘鶴姫を正室に迎えたものの四一歳で死去した。次兄が早くに亡くなっていたため跡を継いだ三見頼職(よりもと)は、三か月在職しないうちに死去。宝永二年(一七〇五)一〇月に吉宗は藩主となる。しかし、これだけでは終わらなかった。その後、享保元年(一七一六)に七代家継が八歳で夭折したため、徳川宗家の血筋は絶え、将軍職が吉宗にまわってくるのである。この就任には、御三家や六代将軍家宣の正室天英院のさまざまな思惑が錯綜したといわれている。つまり、幾多の偶然や政争を経ての就任だったのである。そのことが、吉宗の政治スタイルに影響を与えたと考えられる。

紀州時代からの家臣たち

四代家綱政権期(一六五一~八〇年)に確立したといわれる江戸幕府の政治機構のなかで、外から飛び込んだ吉宗が、みずからの政治的手腕を発揮するためには、気心の知れた紀州時代からの家臣の存在が重要であった。まずあげられるのが、有馬氏倫(うじのり)・加納久道であろう。彼らについては、吉宗が、五代綱吉政権期(一六八〇~一七〇九年)の側用人が権力をふるった弊害を指摘し、廃止したうえ、みずからの側近である有馬・加納を、御側御用取次(側用人より格下の側衆のなかの係)とした、といわれることが多い。そのため、吉宗の政治姿勢は、側近の勢力抑制ととらえられがちだが、実際に有馬・加納の果たした役割は、やはり大きいものがあった。

そもそも、側用人も御側御用取次も、職名が公的記録のなかで固定し、幕府政治機構のなかで役職として成立するのは、九代家重政権期(一七四五~六〇年)であり、その前までは、両者とも役職ではない。つまり、役職の廃止・創設という観点で説明されるものではなく、それぞれの将軍に付属する特有の側近であった。

有馬・加納が行なった職務には、将軍と老中以下諸役人の取次以外に、将軍の生活の場である江戸城中奥に所属する役人(小姓・小納戸)の統括や、隠密組織である御庭番の支配などがある。彼らに支配された小姓・小納戸の多くや御庭番も、紀州出身者で占められていた。彼らが身近にあって、吉宗政治を支えたのである。

大岡忠相

吉宗政治の立て役者としてもっとも知名度が高いのが、二〇年にわたり町奉行を務めた大岡忠相(おおおかただすけ)だろう。「大岡政談」から名裁判官としてのイメージが強いが、歌舞伎や講談に描かれる名裁判のほとんどは、中国の故事やほかの町奉行が行なった訴訟をもとにしたフィクションである。それに、町奉行の職務はさまざまだった。寺社奉行・勘定奉行とともに評定所を構成し、管轄のまたがる裁判を行なったり、老中の諮問機関にもなった。くわえて、寺社と武家を除く江戸の民政全般を担当した。たとえば、江戸の物価問題に取り組み、彼の主張により「元文改鋳」が行なわれている。また、在任中に関東地方御用掛を兼ね、地方で功績のあった田中丘隅や蓑笠之助らを代官に抜擢し、川除普請や新田開発を行なうなど、多岐にわたる活躍を見せた。

大岡自身の登用については、幕府の正史『徳川実紀』に、大岡が山田奉行の時代に、吉宗が彼の公正な訴訟を高く評価し、将軍職に就いた際に町奉行に抜擢したと、記されているが、大岡家の格にふさわしい順当な昇進コースであり、その出世は、とくに異例なものではなかった。ほかに幕府のトップで活躍した人として、老中の水野息之と松平乗邑があげられるが、彼らにしても異例の人事ではない。

足高の制

吉宗の人材登用に関する政策として、足高の制があげられる。これは、役職ごとに決まっている石高に達していない者に、在職中に限り不足分を支給する制度である。じつは、この政策のもとになるような提案を、吉宗にした者がいた。吉宗は、酒井忠拳・稲葉正往・小笠原長重を優遇していたとされる。酒井は、家綱政権期で大老まで務めた父忠清が、綱吉政権の開始時に失脚したために、格の高い家柄にもかかわらず、政治的に不遇だった人物。稲葉は綱吉政権期、小笠原は綱吉から六代家宣政権期(一六八〇~一七一二年)前期まで老中を務めた人物である。

『徳川実紀』によると、なかでも酒井忠挙は、その人となりが優れていただけでなく、政治向きのことにも詳しかった。忠挙は、林信篤を通して、吉宗に下問を受け、彼の意見が、政治の助けになることが少なくなかったという。そのなかに、「石高と役職が応じておらず、任に耐えないものが多く、このままでは吝嗇(けち)な心も生じてしまう。役職にふさわしい禄高を下賜すべき」という提言がある。この意見を取り入れ、苦しい幕府財政を鑑みた結果、「足高の制」が生まれたのかもしれない。

アドバイスは庶民からも

目安箱

吉宗は、諸先輩方からだけでなく、庶民からも広く意見を求めようと、享保六年、目安箱を設置する。江戸市中の貧しい病人の救護を目的とした小石川養生所が設立されたのは、町医者小川笙船の投書からだった。そうした実現に至る投書があった一方、手厳しい批判もあった。麻布に住む浪人山下幸内は、享保四年の「相対済し令」(金銭の貸借から生じた問題は、当事者同士で解決させる)による弊害や、吉宗の好んだ鹿狩りで、庶民が迷惑していることなどを記している。吉宗は、ここまで将軍に諌言(かんげん)した幸内を評価し、褒美まで出したという。

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