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歌舞伎と遊郭

徳川家康が幕府を開いた慶長八年(一六〇三)以降、首府になった江戸には、武士や都市建設のための職人、増大する消費人口を支える商人など大量の人々が流入してきた。人が増えれば娯楽も必要である。江戸の周縁には、芝居小屋が建ち、極端な男社会を裏で支えるため、遊女屋も生まれた。

武士中心の元吉原

遊女屋は、江戸の各所に出現した。秀吉時代に繁盛した伏見や大坂、京都などから流れ込んだ者が中心だったと推測される。歌舞伎飾りなどの興行を行なったが、あまりに繁盛して弊害が出たため、幕府によって禁止された。

駿河の宿駅吉原の旅籠屋(はたごや)だった庄司甚右衛門は、江戸に進出し、家康の知遇を得たことから遊廓開設を許可された。日本橋茸屋町(ふきやちよう)の一部(現在の中央区人形町二・三丁目あたり)の二町四方が囲い込まれ、吉原遊廓が誕生したのは元和三年(一六一七)のことである。寛永期(一六二四~四四)には、吉原より江戸市中にあった湯女風呂のほうが優勢だったが、湯女風呂が禁止されたあと、吉原が唯一公認の遊廓として繁盛した。当時の吉原は庶民が通える場所ではなく、おもに武士を客とした。江戸が開発されるとともに、吉原は江戸の周縁ではなくなる。移転話が持ち上がり、明暦の大火(一六五七年)後、浅草寺裏(現在の台東区千束四丁目あたり)に移転を命じられた。江戸市中から遠く離れることにより、それまで昼間だけの営業だった吉原は、夜間営業も許されるようになった。吉原には、武士のほかに新興の町人たちも通うようになった。

新吉原の最盛期

吉原図
吉原図

紀伊国屋文左衛門(きのくにやぶんざえもん)ら大商人が登楼した元禄期(一六八八~一七〇四)の吉原は、まさに最盛期を迎えていた。浮世絵師菱川師宣が好んで吉原を画題としたのは、そこが、江戸の文化とファッションの発信地であったからである。高尾・薄雲・小紫らの太夫は、遊女屋それぞれの最高ランクの遊女で、名前は代々襲名された。太夫は、当時の大スターで、金があっても遊女屋で「野暮」と見なされたり、太夫が気に入らないと馴染みにはなれない。太夫と床を交わすためには、最低三度の登楼が必要だった。太夫と会うのは、揚屋という立派な座敷をもつ施設である。太夫が妹女郎である新造・禿などを引き連れ、若い衆に先導されて揚屋に向かうのを俗に「花魁道中」といい、見物客の目をひいた。

初期の太夫の出自は、没落した武士の娘が多かったと推測される。しだいにそれ以外の娘も加わったが、利発な娘を幼いころからエリート教育し、最高の女性として育て上げるのである。庶民にとって、太夫が高嶺の花だったことに変わりはない。太夫らのファッションは、浮世絵などを通して庶民の見本となった。その意味でも、太夫は現在の芸能人のような存在だった。ただし、太夫と遊ぶような豪商がしだいに消えていくと、太夫も数を減らし一八世紀後半には消滅した。

遊女の序列と悲惨な人生

吉原には、太夫だけがいたわけではない。太夫に準ずる「格子」のほか、「局女郎」「散茶」などもいた。散茶は、振らずに出るという安価な茶で、客を振らない遊女を指した。これらの遊女は、見世先の格子で道から仕切られた座敷に並び、客の指名を待った。

遊女の出自は、江戸の下層階級が身を落とすほか、北陸・東北などの貧村の娘などが売られてくる。吉原の優美な言葉である「ありんす」言葉なども、そうした出自を隠すために身につけられたものだったという。遊女たちの待遇は悪く、客がつかないと折檻されたり、食事を抜かれたりした。客がついても妊娠して堕胎したり、性病にかかったり、また結核などに冒される者も多く、二〇歳代で死ぬケースがもっとも多かった。

歌舞伎踊りと遊興の場

現在では、古典芸能として重んじられる歌舞伎も、もとは風俗営業と紙一重のものだった。京都で阿国歌舞伎が流行すると、四条河原に小屋掛けし、遊女たちを踊らせるようになった。いわば遊女の顔見せ興行である。幕府は、寛永六年(一六二九)遊女歌舞伎を禁止し、同一七年には、京都下京区の西に遊女を囲い込んだ。これが島原遊廓である。遊女歌舞伎が禁止されると、歌舞伎踊りは前髪を残した少年によって演じられるようになった。いわゆる「若衆歌舞伎」である。芸能というよりは、男色を売るものだった。

若衆歌舞伎が禁じられると、歌舞伎は、成人した男(野郎)のみによって演じられることになった。このため、元禄ごろになると演劇として成長を遂げ、上方に坂田藤十郎、女形(女方)の芳沢あやめ、江戸に市川団十郎らの名優が出た。

演劇という点では、人形浄瑠璃も無視することはできない。男女が共演できず、またあまりなまなましい場面を演じることができなかった江戸時代の演劇にあって、人形浄瑠璃は、人形を使うことで、よりリアルな物語が演じられる。とくに幕府が禁じる心中事件など は、人形だからこそ演じることができたのである。

吉原の名妓歌扇が大人気

女芸者歌扇

吉原で、女芸者歌扇(かせん)が粋な技芸とあでやかな容姿で、大いに人気を集めている。従来から揚屋では、遊女が来るのを待つ問、話芸・遊芸で客をもてなす男性芸者と遊女の技芸不足を補う太鼓女郎とがいたが、このところ、三味線や太鼓による音楽、踊りなどを酒席で披露する女芸者が進出。男性芸者を幇間(ほうかん)、女性芸者を単に芸者と呼んでいる。

吉原では、女芸者を遊女と区別するために、着物は白襟に無地の紋付き、髪形は島田に簪(かんざし)・櫛(くし)・笄(こうがい)各々1本のみと制限してきた。一見地味なその風姿が、むしろ粋なあで姿として遊客の目を引き、一躍吉原の花形として話題をさらうことになったとみられる。

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