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大量輸送が可能で経済的にも優れた北前船

江戸時代の物流は、「将軍のお膝元」江戸と、「天下の台所」大坂という異質な巨大都市を中心に動き出した。また、鎖国政策により、全国で生産された商品の大半が大坂にまわされるという新たな流通システムをつくりあげた。

江戸と大坂を結ぶ

江戸時代の運輸手段は、信州など一部の山間地城を除いて、大量輸送が可能な海運と水運が主役だった。それゆえ物のスムーズな流れを促進するため、大坂を中心に東廻り、西廻りという二大航路がいち早く整備され、それに連なる大小河川の改修も進み、内陸奥深くまで運輸窮が張り巡らされた。江戸~大阪の物流の大動脈には、巨大な運輸仲間(菱垣廻船、樽廻船)が誕生し、江戸の膨大な消費人口を支えることになった。こうした航路開発(船道)は、都市の発展や藩経済の維持と深く結びついていたため、河村瑞賢や角倉了以のほかに、仙台藩士の川村孫兵衛など、全国各地で開発に尽力した人々を多数輩出した。

幕藩領主は、年貢米を売却して財政を維持した。そのため、領内消費分を除く年貢米を中央市場大坂へまわし、そこで売って財源とした。それを廻米といい、運送用の船を廻船と呼んだ。当然このルートは、商人らが大坂へ運ぶ納屋米や諸産物の運送ルートとしても利用されるようになり、積み出し港の整備も進んだ。そして、廻船も藩の持ち船から民間人による廻船の運航が中心となり、船型も千石船と呼ばれるように、大量運送ができ、しかも一枚帆で乗組員が少なくてすむ経済的合理性を追求した弁才船が、主流となっていった。

運賃積みから買い積みへ

城下町
松前城下に点在する豪商たちの店舗と屋敷

江戸時代の廻船業は、大きく二種類に分けられる。ひとつは菱垣・樽廻船に代表されるように、他人の荷物を預かってA港からB港まで代送し、運賃を得て利益を上げる経営形態で、「運賃積み廻船」と呼ばれる。もうひとつは、自分が所有する廻船に商品を積み込み、それらを各港の廻船問屋などへ売り、さらにそこで買い入れた商品を他港へ持ち運び、それらを売って利益を上げる廻船業で、「買い積み廻船」と呼ばれた。前者は一般的な運送業であるが、年貢米や木綿、酒など大量に積載し移動させる場合に適しており、それらを混載するか単品で輸送するかで、菱垣廻船か樽廻船かの違いが生まれた。積み込みから荷揚げまでが単純で、時間短縮が条件の季節商品で、しかも鮮度が勝負の清酒に、酒荷専用の樽廻船が採用されたのは当然であろう。しかし、どちらも荷物を預かったのちは、廻船主や船頭が運航の主導権を握る。そこで荷主とトラブルが頻発し、荷主たちは集団的防衛策として、江戸十組問屋や大坂の二十四組問屋(二十四組江戸積問屋)を結成し、菱垣廻船問屋を従属下に置くようになった。その点「買い積み廻船」は、沿岸の港町に形成された地域的市場密着の廻船経営といってよい。

港町にはさまざまな産物が後背地からもたらされ、地域的市場の中心となりつつあった。「買い積み廻船」業者らは、そんな港で産物を扱う廻船問屋に積み荷を売り、逆に問屋から商品を仕入れて他港(地域的市場)で販売し利益を上げた。それには船主みずからが乗る「直乗り」と、船頭に委託する「沖乗り」方式があるが、船数増大とともに後者が増えていった。港で開業している廻船問屋にとっても、地元の特産物を直接販売できるだけでなく、希望する商品を運んできてくれる点で、願望にマッチした運輸業だった。そのため、近世後期には「買い積み廻船」の寄港が歓迎され、入港船数が激増していった。いずれの船主も各港の商品相場をいち早く知ることが肝心で、寄港先の廻船問屋から得る最新情報が商売を左右した。

地域的市場を結ぶ北前船

北前船

江戸後期は、諸大名の生産奨励もあって全国的にさまざまな特産物が生産され、産地に近い港を中心に生まれた地域的市場がさらに大きくなっていった。なかでも長大な河川によって内陸と結びついた日本海沿岸の新潟や酒田の発展は著しく、集散する原料をベースに新たな加工業が生まれるなど、商工業都市としての性格も持ち合わせるようになっていった。

そのころ、畿内や中国地方の木綿栽培に不可欠な魚肥が不足し、蝦夷地産の鰊(にしん)が脚光を浴びはじめた。この蝦夷地産鰊の取り引きに始まる大坂~蝦夷地の交易は、早くから蝦夷地に進出していた近江商人らが独占してきた。日本海沿岸の村々に生きる人々は、この運送にあたった北国船(ほっこくぶね)や羽賀瀬船などに乗り組んで稼いでいた。しかし、肥料としての鰊や食品としての昆布の需要がいちだんと高まり、蝦夷地の開発に合わせて消費物資量が増大したことが追い風となって、一八世紀後半、彼らはみずから、大量輸送が可能な弁才船の船主となる。そして、大坂~蝦夷地の地域的市場の中心である敦賀・新潟・酒田などの諸港に寄港し、商品の売買をしながら「買い積み廻船」経営を確立して、膨大な利益を上げる船主が続出する。それ故、船主の多くは港町商人ではなく、加賀橋立浦や越前河野浦のような平凡な浦方出身者で占められた。日本海では冬場は運航できないため、彼らは所有船を大坂に陸揚げして春を待った。彼らの営業活動は、大坂をはじめ寄港する諸港で大いに話題になる。そして大坂~蝦夷地、つまり北国沿岸の前で活動する廻船を北前船(きたまえぶね)と呼んで、一目置くようになった。

同じころ、太平洋沿岸でも尾張知多半島沿岸を根城とする「買い積み」廻船業が起こった。彼らは瀬戸内海にまで進出し、十州塩(じっしゆうえん)だけでなく、大坂へ集荷されるはずの商品を買い上げて江戸などへ輸送し、利益を上げたため、大坂市場を衰退させる要因となった。以上のような北前船や内海船のような「買い積み」方式を主とする廻船業は、全国各地の地域的市場と結びつき、明治後期まで日本の運輸業の主役として活動していたのである。

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