一八世紀の日本の出来事
一八世紀の日本は、旧赤穂藩の浪人四七名が、吉良上野介邸に討ち入るという事件で幕を開けた。主君浅野内匠頭が江戸城で刃傷事件を起こし、即日切腹となったことはやむをえないにせよ、主君の喧嘩相手である吉良上野介に何の処分もないということは、当時の武士にとっては我慢のならないことであった。吉良邸討ち入りは、喧嘩両成敗法を自力で実現したものだったのである。この事件には、幕閣のみならず庶民までが感動した。討ち入り後、現場から離れた一名を除く四六名には切腹の処分が下ったが、赤穂の浪人は「義士」とされた。平和な時代ではあったが、武士はこのようなときには戦闘者としての能力を発揮することが求められていたのである。
徳川宗家の血筋は七代将軍いえつぐきようほう家継で絶え、享保元年(一七一六)、八代将軍には家康の孫である紀州藩主徳川吉宗が就任した。当時、幕府財政は窮迫しており、旗本・御家人への切米支給すらままならない状態だった。吉宗は、新田開発を推進する一方で、上米の制や足高の制により、幕府財政の立て直しを図った。この享保の改革により、幕府財政は一時好転した。吉宗は、大御所時代を含めて延享二年(一七四五)まで、三〇年の長きにわたって政権の座にあった。享保一三年(一七二八)には、四代家綱が寛文三年(一六六三)に行なって以来絶えていた日光社参を復活させた。これはいわば平和な時代における大軍事演習であった。
吉宗が信任した町奉行大岡忠相を中心に、公事方御定吉(くじかたおさだめがき)などの法典の整備も行なわれた。幕府官僚制機構も御側御用取次(おそばごようとりつぎ)の設置にみられるように複雑化しながら整備され、将軍権力はより強固なものとなった。
家重の小姓から立身して、安永元年(一七七二)老中となった田澤意次は、外国貿易を拡大し、株仲間を積極的に公認して運上や冥加金(みようがきん)といった商業や流通への課税を行なった。幕府が、これまで賤しいものと位置づけてきた商業資本に積極的に関与し、経済的な面から幕府権力を強化しようとしたのである。
田沼の積極的な姿勢を示すものとして、蝦夷地探検の推進や開発計画の立案があげられる。また、中国船に対し、それまでの主たる輸出品である銅にかえて、蝦夷地の産物である俵物(煎海鼠(いりこ)・干鮑(ほしあわび)・鰊鰭(ふかひれ))の輸出を奨励した。この結果、俵物の対価として中国船から銀が輸入されるようになった。
経済的な面を重視するあまりに、田沼の政治には賄賂もついてまわった。商人だけではなく、武士も金銭を使うことによって官位上昇や役職の昇進をはかる悪弊が横行するようになった。とはいっても、金銭で得ることができるのは官位昇進や家格相応の出世にすぎなかった。その意味では、幕府の秩序はゆるぎないものだったのである。
一〇代将軍家治の死を契機に、田沼は失脚することになる。次いで登場した老中首座松平定信は、いくぶん復古的な色合いをもつ寛政の改革を推進する。しかし、この改革は、結果的にみると幕府の体制を近代化し、現在社会の起点となるものだった。定信は、海防の強化を進め、幕府大学疎林家(だいがくのかみりんけ)の私塾を改組した昌平坂学問所において学問吟味を始めるなど斬新な政策を行なった。また、七分積金制度や飢饉に備える社倉の創出など、民間の経済力に依拠する形での社会政策も推進した。すでに田沼の時代には、ロシア船が蝦夷地に出現し、通商要求を行なっていた。田沼の蝦夷地開発は、ロシアの南下への対応策でもあったのである。通商要求に対する正式回答は、一九世紀に定信によって行なわれることになるが、従来の「鎖国」政策はしだいに維持することが困難になってきていた。
西暦 | 和暦 | 月・国内の出来事 | 天皇 | 将軍 | 世界の出来事 |
1701 | 元禄14 | 3 赤穂藩主浅野長短、江戸城中で吉良義央を傷つけ切腹、改易。 | 東山 (在位1687~1709) |
綱吉 (在職1680~1709) |
1701 スペイン継承戦争始まる。 |
1702 | 元禄15 | 12 赤穂浪士仇討ち事件。 | 1702 北米で英・仏植民地戦争始まる。 | ||
1707 | 宝永4 | 11 富士山噴火。 | 1707 イングランドとスコットランドが合同し、大ブリテン王国成立。 | ||
1709 | 宝永6 | 1 徳川綱吉死去(64)。生類憐みの令を廃止。 | |||
新井白石・間部詮房登用される(正徳の治)。 | |||||
1710 | 宝永7 | 8 閑院宮家を創設。 | 中御門 (在位1709~35) |
家宣 (在職1709~12) |
|
1711 | 正徳1 | 2 朝鮮使節への待遇を簡素化。 | 1713 ユトレヒト条約締結。 | ||
4 将軍の称号を「日本国王」とする。 | 1714 (英)ハノーヴァー朝始まる。 | ||||
1715 | 正徳5 | 1 長崎貿易を制限、長崎市中への貿易利銀配分の体制が確立。(海舶互市新令) | 家継 (在職1713~16) |
1715 (仏)ルイ14世死去。 | |
1716 | 享保1 | 4 家継死去(8)。 | |||
1716 | 5 吉宗、将軍となる(享保の改革)。 | 吉宗 (在職1716~45) |
|||
1719 | 享保4 | 11 金銀貸借・買掛などの訴訟を不受理(相対済し令)。 | |||
1720 | 享保5 | 8 江戸市中に町火消(いろは47組)を設置。 | |||
1721 | 享保6 | 8 目安箱の設置。小石川薬園を設立。株仲間結成令。 | 1721 (英)ウォルポール内閣(責任内閣制の始まり)。 | ||
1722 | 享保7 | 7 諸大名に上米を課し、参勤交代を緩和。 | |||
12 小石川養生所を設置。 | |||||
1723 | 享保8 | 6 足高の制。 | 1727 清・露間でキャフタ条約締結。 | ||
1729 | 享保14 | 12 相対漬し令を廃止。 | |||
1730 | 享保15 | 4 上米の制を廃し、参勤交代を旧に復する。 | |||
8 大坂堂島仲買人による米相場が公認される。 | |||||
1732 | 享保17 | この年、蝗害により山陽・南海・西海・畿内で大飢饉(享保の大飢饉)。 | 1735 (清)乾隆帝(高宗)即位。 | ||
1739 | 元文4 | 5 陸奥・安房・伊豆の沿岸にロシア船が出没。 | 桜町 (在位1735~47) |
1740 (普)フリードリヒ2世即位。 | |
1742 | 寛保2 | 4 「公事方御定書」完成。 | オーストリア継承戦争始まる。 | ||
1745 | 延享2 | この年、京都西陣機屋仲間が成立。 | 1744 英・仏間でジョージ王戦争始まる。 | ||
1752 | 宝暦2 | この年、長州藩が藩政改革を開始(宝暦の改革)。 | 桃園 (在位1747~62) |
家重 (在職1745~60) |
|
1753 | 宝暦3 | 4 佐渡代官を設置。諸大名に備荒貯穀令。 | |||
1755 | 宝暦5 | この年、奥羽地方大飢饉。 | |||
1756 | 宝暦6 | 6 米商人に米の買い占めを禁じる。 | 1756 七年戦争始まる。 | ||
11 徳島藩の農民、藍への重税に反対して一揆。 | |||||
1757 | 宝暦7 | 7 平賀源内、物産会を開く。 | 1757 プラッシーの戦いに英が勝利し、インドから仏勢力を駆逐。 | ||
1758 | 宝暦8 | 7 竹内式部を捕らえ、公家17人を罷免・処罰(宝暦事件)。 | 1762 (露)エカテリーナ2世即位。 | ||
1764 | 明和1 | 12 日光東照宮一五〇年忌に伴う伝馬助郷役増徴に反対して農民隆起(明和伝馬騒動)。 | 後桜町 (在位1762~70) |
家治 (在職1760~86) |
1763 パリ条約(七年戦争終結)。 |
1765 | 明和2 | この年、錦絵誕生。 | 1764 (英)砂糖法により北米植民地を圧迫。 | ||
1767 | 明和4 | 8 山県大弐・藤井右門を処刑、竹内式部流罪(明和事件)。 | 1767 ビルマ軍、アユタヤ朝を滅ぼす。 | ||
この年、米沢藩主上杉治憲(鷹山)、藩政改革に着手。 | 1768 第一次ロシア・トルコ戦争始まる。 | ||||
1771 | 明和8 | 3 伊勢御蔭参り流行。 | |||
杉田玄自ら、小塚原で刑死体解剖を見、『解体新書』の翻訳を始める。 | 後桃園 (在位1770~79) |
||||
1772 | 安永1 | 1 田沼意次、老中となる。 | 1772 澳・露・普による第一ポーランド分割。 | ||
大坂天満青物市場問屋・仲買の株仲間を公認。 | |||||
1773 | 安永2 | 4 諸国に疫病流行。菱垣廻船問屋株を公認。 | 光格 (在位1779~1817) |
1773 (米)ボストン茶会事件 | |
1780 | 安永9 | 8 大坂に鉄座、江戸・京都・大坂に真鍮座を設置。 | 1775 アメリカ独立戦争。 | ||
1782 | 天明2 | 8 下総印旛沼・手賀沼の干拓着工。 | 1778 仏、米と同盟し、アメリカ独立戦争に参戦。 | ||
この年から大飢饉が始まる(天明の大飢饉)。 | |||||
1783 | 天明3 | 7 浅間山大噴火。 | 1783 パリ条約締結し、アメリカの独立承認される。 | ||
大黒屋光太夫カムチャツカに漂着。 | |||||
11 百姓一揆取締令。 | |||||
1784 | 天明4 | 3 佐野政言、田沼意知(36)を殺害。 | 1784 ピットのインド法成立。 | ||
諸国大飢饉、奥州被害甚大。 | |||||
1785 | 天明5 | 12 大坂町人に御用金を課す。 | 1785(英)カートライト、織機を発明。 | ||
1786 | 天明6 | 7 関東・陸奥で大水害。 | |||
8 下総印旛沼の開墾中止。 | |||||
田沼意次、老中を罷免される。 | |||||
この年、最上徳内が千島探検、ウルップに至る。 | |||||
1787 | 天明7 | 5 各地で打ちこわし(天明の打ちこわし)。 | 家斉 (在職1787~1837) |
1787 第二次ロシア・トルコ戦争始まる。 | |
6 松平定信、老中首座に就く(寛政の改革)。 | |||||
8 倹約令。 | |||||
9 鉄座・真鍮座を廃止。 | |||||
1788 | 天明8 | 1 京都大火、禁裏・二条城炎上。 | 1788 英、オーストラリアを流刑植民地とする。 | ||
1789 | 寛政1 | 9 棄捐令・倹約令。諸大名に囲米を命じる。 | 1789 (米)ワシントン、初代大統領に就任。 | ||
1790 | 寛政2 | 2 物価引下げ令。江戸石川島に人足寄場を設置。 | フランス革命。人権宣言が出される。 | ||
5 寛政異学の禁。出版取締令。 | |||||
1791 | 寛政3 | 12 江戸に町会所をつくり、七分積金の法を定める。 | |||
1792 | 寛政4 | 9 ロシアのラクスマン、根室に来航して通商を要求。 | 1792 (仏)第一共和政。 | ||
11 幕府の反対により、典仁親王の尊号宣下を見合わせる(尊号事件)。 | |||||
1793 | 寛政5 | 2 伊予吉田藩で一揆(武左衛門一揆)。 | 1793 第一回欧州大同盟(仏大同盟)。 | ||
7 松平定信、老中を辞職。 | 1795 澳・露・普による第三ポーランド分割、ポーランド国家消滅。 | ||||
1797 | 寛政9 | 11 オランダの傭船(アメリカ船)、長崎入港。 | 1796 (清)白蓮教徒の乱。 | ||
1798 | 寛政10 | 7 近藤重蔵、択捉島に日本領の標柱を立てる。 | 1798 (仏)ナポレオン、エジプトに遠征。 | ||
1799 | 寛政11 | 1 東蝦夷地を幕府直轄とする。 | 1799 (仏)ナポレオン、クーデターにより政権握る。 | ||
11 津軽・南部両藩に東蝦夷地の守備を命じる。 | 英、南インドを占領。 | ||||
この年、高田屋嘉兵衛、択捉航路を開拓。 |