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学問と科学技術

江戸時代には、自分の足で、あるいは協力者を動員し、各地を旅しながらさまざまなものを見聞・収集し、記録することが行なわれていた。対象は、今でいう人文・自然科学両面に広がっており、同時代ヨーロッパで体系化された科学ほどではないが、実証主義的な手法による学問が、儒学(漢学)、国学、蘭学・洋学の垣根を超えて生まれていたといえる。これは個人的な興味や情熱、野心に始まることが多かったが、時には権力の後押しを得て組織的な大事業に発展することもあった。幕府も藩も、みずからが治める土地の知識、治めるための知識を必要としていたからである。

しかし、実証的科学に挑戦し、成果を出版、公表する機会と意欲が、中央権力に独占されることなく、大名や武士、さらには経済力をつけつつあった豪農商層にも問かれていたことは特筆に値する。市井(しせい)の学問の発達とともに、それはやがて幕府の恐れるところとなり、とくに欧米諸国との関係と絡んだ場合、幕府の弾圧を招くことにもつながっていった。

儒学・音楽・国学

本居宣長
本居宣長

幕府の尊重する儒学では、礼楽をもって国を治める、とされる。「礼」が上下の秩序であることはわかりやすいが、「楽」がどのような音楽であるかは難しい。幕府や大名家では、楽書の収集を行ない、音楽の研究と雅楽の復興に努めた。武家の式楽は能楽だとされたが、幕府の学問所である昌平黌(しょうへいこう)や藩校で行なわれる尺てん(孔子を祀る儀式)などでは雅楽も演奏された。儒学者だけではなく、賀茂真淵や本居宣長などにも音楽に関する著作がある。賀茂真淵は、京都の荷田春満に師事し、日本古典の研究をはじめ、国学をもって田安徳川家の初代当主宗武に仕えた。

徳川宗武は、賀茂真淵にみずから教えを請うだけでなく、京都・奈良への遊学(研究旅行)の資金も与え、真淵が本居宣長に対面したのも、その帰途に宣長の住む伊勢松坂(現在の松阪市)に立ち寄ったときであった。本居宣長は、文学研究や古語の実証主義的な研究を行ない、それに基づいた斬新な見方を提示して、国学を大成した。しかし日本を他国と異なる神国として評価する、偏狭な部分もあった。

徳川宗武の子桧平定信は、天明七年(一七八七)から寛政五年(一七九三)にかけて改革を主導し(寛政の改革)、幕府の学問所で朱子学以外の講義を禁ずる寛政異学の禁(一七九〇年)を断行した。しかし一方、日本文化財図録である『集古十種』を編纂するなど、国学的な関心もあった。賀茂真淵の弟子で、『群書類従』の編纂で知られる塙保己一は、幕府の儒者林大学頭の配下で和学講談所を開き、六国史以降の日本史の記述を客観的な史料の叙述で補うことをめざした。

蘭学は長崎から江戸へ

蘭学は、オランダ語で書かれた、あるいはオランダ語に翻訳された西洋の書物に基づいた学問のことである。その主流は、医学と天文学、軍事科学であった。医学は、人の命にかかわるので需要があったし、天文学は暦の作成と測量の役に立ったから、西洋の学問体系を総体として輸入する素地のない日本でも、実用的な学問として受容されたのである。

最初の本格的な蘭目辞書は、オランダ商館長ドゥーフと長崎のオランダ通詞が蘭仏辞書から訳出した「ヅーフ・ハルマ」と呼ばれるものである。のちに、江戸の蘭学者がもとオランダ通詞の助力を得て、寛政八年「ハルマ和解」(江戸ハルマ)を作成した。最初の西洋解剖学書の翻訳は、一七世紀未に長崎の通詞によってなされた。一八世紀に入ると江戸でも西洋医学への関心が高まり、安永三年(一七七四)前野良沢・杉田玄自らによる『解体新書』が出版された。実際に輸入された西洋医術で重要なのは、種痘(天然痘の予防接種)である。長崎で成功した種痘は江戸に伝えられ、その後各地に広まった。玄白と交友のあった平賀源内は、長崎で学んだ科学の知識をもとに物理学の研究を進めた。ほかにも多くの蘭学者が長崎に遊学して、蘭学を身につけた。

伊能図とシーボルト事件

大日本沿海輿地全図
大日本沿海輿地全図

伊能忠敬は、延享二年(一七四五)、上総国武射郡小関村の名主小関家に生まれた。一八歳で佐原村の伊能家の婿養子として迎えられ、三十一歳で名主となる。五十一歳で家督を譲ったが、隠居とはいいながら江戸に居を移し、暦算を志す。当時、幕府は改暦作業を進めており、大坂から高橋至時を招いていた。その名声を聞いた忠敬は至時に師事し、寝食を忘れて日食・月食の計測に没頭したという。熱心さと努力が実り、天文学者としての才覚を発揮。ついに寛政一二年、幕府に蝦夷地の測量を申請して許可され、江戸を出立する。忠敬、五十六歳のときである。

その後、10回にわたる測量調査で、忠敬が参加した測量日数は合計3,397日となり、約9年半を測量の旅で過ごしたことになる。歩いた距離は9,378kmにも及ぶ。忠敬自身は全回測量の成果をみることなく、文政元年(一八一八)に死去するが、弟子や友人らの協力で『大日本沿海輿地全図」25枚が3年後の文政四年に完成し、幕府へ献上された。

一九世紀の初めごろ来日したオランダ商館のドイツ人医師シーボルトは、幕府から長崎郊外での患者診療と、医学や関連諸科学の教授を認められた。それは、彼の来日の任務のひとつが、日本の物産や民族情報の入手であり、そのためオランダが幕府に特別な働きかけをしたからであった。

シーボルトは、文政一一年(一八二八)離日の際、幕府が持ち出しを禁じていた日本地図「大日本沿海輿地全図」(伊能図)を所持していたため、国外追放・再渡航禁止になった。また、伊能図をシーボルトに渡した幕府天文方の高橋景保ら、多数の日本人関係者も処罰された(シーボルト事件)。

高橋が伊能図を渡したのは、クルーゼンシュテルン著『世界周航記』の蘭訳と交換するためであった。同書には、長崎を含む世界各地の港の防備の様子などが詳しく書かれており、海外知識の入手や海防に責任のある立場の高橋には、ぜひとも欲しい書物であった。権力は、支配の役に立つ範囲において学問や科学を援助するが、その範囲を逸脱すると弾圧する。この事件の処罰の厳しさは、人々を恐れさせ、蘭学の発展を一時抑制した。

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