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ロシアの南下や英米の測量・捕鯨に幕府に危機感

幕府を脅かしたのは、ロシア帝国の南下だけではなかった。イギリス、フランスは、日本近海で、近代的な測量による海図の作成を進めた。一方、アメリカなどの捕鯨船が、鯨油を求めて日本の北方で操業を始めた。幕府は、これらの船と武力衝突を起こして負けることを恐れ、各地で沿岸防備体制の構築を進めた。

レザノフ来航

レザノフ来航
ロシア使節レザノフ来航絵巻

寛政四年(一七九二)、ロシア使節ラクスマンが、根室に来航して通商を求めた。このとき、「交渉は長崎で」という幕府の指示で、ラクスマンは長崎入港の信牌(許可証)を受け取って帰国した。文化元年(一八〇四)、この信牌を持参し、ロシア皇帝の親書と、将軍への贈り物を携えてレザノフが長崎に来航。ところが、幕府は半年近くも待たせたのちに、貿易の不許可を通達。しかも、親書と贈り物の受け取りまで拒否した。この対応に態度を硬化させたロシア側は、蝦夷地周辺を襲撃するようになっていく。

近代測量による海図作成

一八世紀なかばの観測機器の発達により、海上から天体観測で、観測地点の緯度と経度を正確に知ることができるようになった。イギリス、フランス、ロシアは、相次いで世界周航艦隊を送り、世界の海図の完成をめざした。これは自国の海軍や商船の安全な航海を保証するためのものであると同時に、世界中の事物を「知る」=「統る(支配する)」という博物学全盛期のヨーロッパの世界観の表われともいえよう。その際、最後に残った空自地帯が日本の北方海域であり、各国ともその地域に関心を集中させた。

日本近海での捕鯨

欧米では、従来大西洋で鯨漁を行ない、鯨油を蝋燭(ろうそく)や機械の潤滑油などの原料としていた。捕鯨業者の利潤は莫大で、一八世紀末にはアメリカの捕鯨船が、はじめて太平洋で操業を開始した。一八二〇年には、日本北方海域が鯨の豊富な漁場であることが知られ、アメリカ船は年間一〇〇隻以上、イギリス船も一〇隻前後が日本近海に出漁した。のち、大西洋での漁獲高が減少したため、ほかのヨーロッパ諸国の捕鯨船も日本近海に進出した。

捕鯨船は、鯨油を取るため脂肪を船上で煮る薪を必要とし、日本の海岸に近づいて木材を採取した。また、水や食糧の補給のために、上陸することもあった。たとえば文政七年(一八二四)には、イギリス捕鯨船の船員が常陸大津浜や薩摩宝島に上陸している。

北方と江戸湾の防備

上陸した外国船の船員と、沿岸部住民との間の紛争が頻繁に起きるようになり、幕府は神経をとがらせた。文政八年には異国船打払令(無二念打払令)を発して、日本に近づく外国船は、すべて武力をもって撃退するように命じた。とくに、ロシアの南下と捕鯨船の操業などにより、外国船船員の上陸が多かった蝦夷地の防備は重要であった。盛岡藩や弘前藩は、多数の藩兵を蝦夷地に派遣、駐在させることを幕府から命じられ、藩財政は逼迫し、負担を転嫁された領民の生活も圧迫した。

また江戸は、住民の必要物資の多くを海からの供給に頼っていた。そのため幕府は、江戸湾を外国船に封鎖された場合の混乱を恐れて、江戸湾防備も重視した。この防備には、諸藩の兵力が動員され、それら大名願の大きな負担となった。

漂流民送還をめぐって

この時期、日本国内の商品生産が活発化し、全国規模での物流が発達した。とくに日本沿岸の海上輸送の規模が大きく拡大し、場合によっては、岸から相当離れた沖合いを航行することも、まま見られた。蝦夷地の開発や防備のためにも、かなりの数の船が北へ向かった。そのなかには、悪天候などで本来の航路を離れ、黒潮に乗って、遠くアメリカ方面に漂流する船も出た。ロシアやイギリスは、これら漂流民の送還を、いわば口実に日本に近づくようになってくる。蝦夷と上方間の商品流通によって富をなし、蝦夷地開発にも活躍した高田屋嘉兵衛は、文化九年(一八一二)、日露間の紛争に巻き込まれ、乗船が掌捕されカムチャッカに連行された。翌年、紛争解決とともに無事に送還され、日露両国の交渉・調停に尽力したとして称賛された。

土佐の漁師中浜万次郎(ジョン万次郎)は、太平洋を漂流、天保一二年(一八四一)、アメリカの捕鯨船に救助された。約一〇年後、琉球・長崎経由で帰国した。土佐藩に英語の教師として取り立てられ、のち幕臣となった。江戸時代前半から、中国などに漂着した漂流民は、日本に送還される仕組みができあがっていたが、彼らには、帰国後、終生厳しい監視がつけられた。ましてや、その仕組みの外の地域に漂流した者は、たとえ生存していても帰国することは不可能であった。しかし江戸時代の終わりには、嘉兵衛や万次郎のように、外国を実際に見間し、外国語を身につけた貴重な存在として過される例もあった。

モリソン号事件

モリソン号

アメリカの貿易会社オリファント社の商船モリソン号が、日本人漂流民7人を乗せて江戸湾に姿を現わした。突然の来航に驚いた浦賀奉行所は、文政の異国船打払令に従って平根山砲台から砲撃を開始。この事件によって、渡辺華山が『慎機論』を、高野長英が『戊戌夢物語』を著わして幕政を批判し、幕府はこれに対して、厳罰をもって臨み、渡辺華山は謹慎中に自害、高野長英は逃亡中に捕縛されそうになってやはり自害した。これを「蛮社の獄」(ばんしゃのごく)という。一方モリソン号側は、砲弾を撃たれても沖合いの自船まで届かなかったためか、当初自分たちを歓迎する祝砲かと思ったという。

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