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朝廷権威の急浮上、幕府は京都で崩壊した

尊王撰夷が叫ばれるなか、幕府は朝廷の意向を無視できなくなった。徳川家茂は、将軍として二三〇年ぶりに上洛し、将軍が江戸を不在にすることも多くなる。幕末重要事件の八月一八日の政変、禁門の変、徳川慶喜の将軍宣下、大政奉還、王政復古などは、朝廷も深くかかわり、いずれも京都を舞台にしていた。この京都に、政治的な立場を異にしながらも、落日の江戸幕府を支えた四人の兄弟がいた。美濃高須藩に生まれた徳川慶勝、徳川茂徳、松平容保、松平定敬である。

朝幕融和をめざして

会津藩主松平容敬の養子となった三男の容敬(かたたか)は、嘉永五年(一八五二)会津藩主となり、文久二年(一八六二)には新設の京都守護職に就任した。京都守護職とは、尊嬢運動の高まりによって、京都所司代の治安能力が低下したことを受けて、広く畿内全域の治安維持にあたった幕府の重職である。

入京した容保は、新選組を配下に置き、京都の治安維持に努めた。朝幕関係を悪化させる長州尊嬢激派を八月一八日の政変で一掃し、翌年の禁門の変では、病気をおして長州藩の御所制圧を防いだ。長男の慶勝は、嘉永二年、本家である御三家筆頭の尾張藩主となった。安政五年(一八五八)の日米修好通商条約調印は、朝廷の許可を得ていないと反発し、水戸藩の徳川斉昭らとともに不時登城事件を起こしたように、慶勝は朝廷を尊重していた。

その結果、大老井伊直弼から隠居・謹慎に処せられるが、文久二年には復権し、翌年上京を果たした。このとき、朝幕融和を具体化するため、上洛した家茂を長期に滞京させようと、容保とともに運動している。桑名藩主となった四男定敬も、元治元年(一八六四)四月に京都所司代となり、容保と協力して京都の治安維持、朝幕融和に努めていった。

長州処分をめぐって

禁門の変
長州藩に応戦する会津藩

禁門の変で朝敵となった長州藩を征討するため、慶勝は元治元年に征長総督となるが、国内戦争を避けるため寛大な措置をとって、早々に軍勢を引き揚げた。これを第一次長州戦争という。慶勝の処置に反発した幕府は、再度の長州処分を図っていった。第二次長州戦争の始まりである。

江戸を出立し、大坂城に入った家茂のまわりには、徳川慶喜や容保、定敬らが集まり、朝廷の意向を尊重して処分を相談した。このなかには、高須四兄弟の次男徳川茂徳の姿もあった。茂徳は、慶勝の隠居後に尾張藩主となったが、慶勝とは違い、幕府権力の維持を重視していた人物である。大坂城に入った茂徳は、家茂からの厚い信頼を受け、大きな影響力をもったが、朝幕協調路線をとる慶喜・容保らと対立し、江戸に追放される。長州藩との交渉が決裂すると、慶応二年(一八六六)六月、戦闘の火ぶたが切って落とされた。だが諸藩は戦争に消極的で、なかでも薩摩藩は薩長盟約を結んで幕府に対抗したため、征長軍は各地で敗北していった。さらに家茂が大坂城で病没すると、将軍の死を口実に撤兵せざるをえなくなった。

将軍がいない江戸城

将軍が京都・大坂にいる間、幕府の中心であった江戸城は、御三家が江戸留守役として将軍を代行し、留守をあずかった老中とともに万事を取り仕切っていた。文久期の上洛では、茂徳が江戸留守役を任され、元治期には水戸藩主の徳川慶篤が、慶応期には大坂から江戸に下った茂徳が再度留守を預かった。留守中は、登城する役人も制限され、一部の城門は昼夜締め切りとなった。櫓(やぐら)の窓は閉ざされ、火の用心が徹底された。

基本的には、静かに将軍の帰りを待っていたのである。とはいえ、横浜が近くに位置する江戸は、独自の外交措置をとる必要もあった。なかでも文久三年二月、前年の生麦事件の賠償金を求めてイギリス船が来航すると、留守役の茂徳は、外国との戦争を回避するため賠償金支払いを決している。そのため、撰夷主義の慶勝や孝明天皇の意向を尊重する容保からは、批判を受けた。このように将軍不在のなかで困難に直面する江戸幕閣は、将軍が早く江戸に帰るよう繰り返し求めていった。そのため、将軍の滞京を進める慶喜や容保らとしばしば対立し、幕府は江戸と京都とに二分されていったのである。

大政奉還

大政奉還

孝明天皇の要望もあり、徳川慶喜は二条城で最後の将軍に就任した。二条城で将軍宗下を受けたのは、二代将軍秀忠以来で(三代将軍家光は伏見城)、幕末政治の中心が江戸ではなく貢坂にあり、朝廷の意向を無視できない状況にあるのは、もはや明らかだった。

朝延に接近する慶喜にとって、天皇が急死したことは痛手であったが、頑固な嬢夷主義者がいなくなったことで、欧米諸国との友好関係を築くべく行動できるようになったことも事実である。兵庫開港については、当初、諸大名の協力を求めた慶喜だったが、イギリスの圧力により独断で開港の勅許を獲得。これに諸大名は反発し、薩摩・長州藩を中心に倒幕強硬論の気運が高まっていく。

この状況下で、土佐藩が、慶喜に大政奉還を求める運動を起こした。対外問題に関しては、朝廷を中心に幕府・諸藩が協力すべきと考えていた慶喜は即座に了承し、慶応三年一〇月一四日、大政奉還の上表文を朝廷に提出した。しかし、大政奉還後も慶喜は将軍でありつづけ、諸大名の中心として政局を運営しうる力を十分に保持していた。これに対して、薩摩藩倒幕派は、土佐・尾張・福井・広島藩を巻き込み、一二月九日に王政復古クーデターを断行し、新政権を発足させた。同時に、幕府制度は廃止され、慶喜は将軍職を罷免。慶喜は事前に情報を入手しながら、なんの手を打つことなく黙認した。ここに、二六五年続いた江戸幕府は、一滴の血を見ることなく幕を下ろしたのである。

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