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幕藩体制をゆるがしたペリー来航は、日米交流の原点になった

一八世紀に入って、外国船が頻繁に日本近海に出没するようになると、幕府は本格的に海防政策に着手した。当初、外国船を打ち払うべしとする無二念打払令(むにねんうちはらいれい)を発した幕府だが、アヘン戦争で大国清国がイギリスに敗れたことを知ると、打払令を撤回した。その一方で、幕府は江戸湾警備を強化させ、弘化四年(一八四七)以降、浦賀周辺は彦根藩井伊家、川越藩松平家、会津藩松平家、忍藩松平家の四藩が警備にあたった。さらに、嘉永元年(一八四八)、幕府は浦賀奉行所の増員も行ない、危機に対応していく。鎖国政策をとる幕府にとって、外国船の出没は緊迫した問題だったのである。

ベリー艦隊の日本派遣

黒船来航

一九世紀初頭までに産業革命を達成させ、東アジアに進出していたイギリスは、アへン戦争の勝利によって香港を獲得し、自由貿易政策を進展させていた。アメリカも、メキシコ戦争の勝利によって、カリフォルニア州を獲得するなど、拡張政策を進めつつあった。カリフォルニアでは金鉱が発見され、ゴールドラッシュに沸いていた。

このころには産業革命を迎え、対中国貿易の拡大のために、アメリカは太平洋航路の開発を急いでいた。だが、太平洋横断には蒸気船が不可欠で、当時の蒸気船は大量の石炭を必要とし、その補給基地を確保しなければならなかった。アメリカにとって、日本はまさに最適の位置にあったのである。当時のアメリカは捕鯨業の全盛期でもあり、灯火用の鯨油を得るため、五〇〇~六〇〇隻もの捕鯨船が、北太平洋に展開していた。捕鯨船の食料や水も必要で、漂流した捕鯨船の救助も重要な課題だった。

アメリカ大統領フィルモアは、こうした問題を解決するために、日本に使節を派遣することを決意した。その使節が、東インド艦隊司令長官のマシュー・カルプレイス・ペリーだったのである。ペリーは、一八五二年一一月二四日にアメリカ、ヴァージニア州を出発、北大西洋を渡り、喜望峰から北上、セイロン島、シンガポールを経て香港に到着した。そして琉球、小笠原、さらには浦賀へと至るのである。乗組員一〇〇〇人もの食料を確保するため、牛・羊・鶏などを艦上で飼育しての航海だった。

日本の開港

ペリー来航の予告は、オランダ商館長ドンケル・クルティウスによって、嘉永五年にもたらされた。これには、アメリカが日本に使節を派遣したこと、アメリカは日本との通商を望んでいることが書かれていた。老中阿部正弘の内達を受け、危機意識を高めた外様雄藩に対し、幕府首脳は来航はないものと楽観視していた。そのため、十分な対応策もなくペリー来航に直面することになる。

ペリー艦隊の軍事力を目のあたりにした幕府は、久里浜でアメリカ大統領の親書を受け取らざるをえなかった。親書には、石炭の確保、漂流民の保護とともに、日本と通商したい旨が記されていた。親書を渡したペリーは、翌年ふたたび来航することを約束して、来航一〇日にして日本を去る。あたかも日本の立場を尊重したかのようだが、滞在に必要な食糧不足が深刻という、ペリー側の事情もあったのである。

その内情を知らない幕府は、アメリカ親書を諸大名に回覧し、意見を求めた。こうした措置は、幕府の安定期にはみられなかった前代未聞のことである。多くの大名は、アメリカの要求を拒絶すべしとしたが、軍事力を見せつけられた幕府は、その要求を拒むことができず、再来航したペリーとの間で日米和親条約が締結される。ここに日本の鎖国政策は終わりを告げたのである。

このとき、日米双方の間でさまざまな饗応が催され、日本側からは米俵が贈られた。軽々と米俵を運ぶ力士の怪力にアメリカ人たちは驚愕し、軍事力に劣る日本は、なんとか面目を保つという場面もあった。

その後、安政五年(一八五八)に日米修好通商条約が調印され、幕府はついに開港、自由貿易に踏み切った。次いでオランダ、ロシア、イギリスなどとも条約が結ばれ、日本は世界資本主義経済に巻き込まれていくのである。

庶民の好奇心

ペリー来航は、幕政における雄藩大名の発言権を増し、幕藩体制をゆるがす契機となったが、その混乱をよそに、庶民はペリー艦隊に怖いもの見たさの関心を示していた。「昔の人が知らない珍事を眼の前に見ることは、苦しみのなかの楽しみ」「後世の人にそのありさまを記そう」といったように、艦隊が立ち去る前に、ひと目見ようと繰り出した。庶民にとっては一生に一度あるかないかの一大イベントだったのである。幕府は混乱を回避するため、見物を禁止したが、まったく効果はなかった。

江戸では、今にも合戦かとうわさされ、「武具馬具屋 渡人さまと そつと云い」という川柳も現われた。武具商人は大儲けで、ペリー艦隊はまさに宝船だったといえよう。こうしたお祭り騒ぎも、貿易が開始されると一気に目を覚まさせられる。経済は混乱し、激しいインフレは庶民を苦しめた。このころから、嬢夷派志士による外国人殺傷事件が起きるが、庶民も嬢夷を叫び、幕府の政策に異をとなえるようになっていった。

横浜開港

横浜西洋化
チャータード・マーカンタイル銀行

通商条約の締結により、日本は箱館・長崎・神奈川・新潟・兵庫の開港を決定した。東海道の宿場町神奈川は、立石上の都合で横浜に変更され、安政六年春から開港場の毅が始まり、六月には外国人居留地と日本人町が完成、十一月には遊廓もつくられた。

わずか一〇〇戸ほどの漁村だった横浜へは、ひと旗あげようとする日本人商人が集まり、横浜は東アジア屈指の貿易都市へと変貌していく。

外国人のなかには、貿易商人だけではなく、多彩な芸能をもった者も来日した。アメリカ・セイラム生まれの芸人リチャード・リズレー・カーライルもそのひとりである。

元治元年(1864)春、曲馬団を率いて来日したリズレーは、外国人サーカス団による日本初の興行を行なった。その後、横浜に住みつき、翌年ロイヤル・オリンピック劇場を開設。しかし、別の事業にも熱中し、氷を大量に輸入してアイスクリーム業に専念、劇場を閉鎖した。一方、劇場閉鎖を惜しむ声も多く、イギリス公使パークスらの後援を得て劇場を再開。さらに、アメリカから雌牛を連れてきて牧場を経営し、牛乳販売も行なった。横浜は、まさに魅力的な人たちが集い、多彩な活動を繰り広げる国際都市だったといえよう。

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