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災害と大飢饉

災害についての考え方は、時代とともに変化する。公害や戦争なども含めて災害とする考え方は、今や当たり前となった。災害に対するとらえ方が変わるだけではなく、地震・噴火・津波・洪水などの突発的自然災害で受ける被害状況も、社会の変化とともに変わってきている。

周期的に起こる大地震

富士山噴火
宝永大噴火の様子

江戸時代に発生した大きな地震で多数の記録が残る例としては、元禄一六年(一七〇三)の関東地震、四年後の宝永四年(一七〇七)の地震と、東海以西、四国、九州に至る太平洋沿岸での津波がある。さらにその一か月半後には、富士山が噴火した。また、時代を一世紀半下った安政元年(一八五四)、宝永地震と同じプレート境界型地震の東海・南海地震が発生する。さらにその翌年には、開国要求の外圧にゆらぐ幕府のお膝元を襲う安政江戸地震が起きた。それから一世紀半後の今、首都直下のプレート境界型地震の再来が恐れられているのである。

一八世紀初頭の災害

相模トラフ(海溝)を震源とする元禄関東地震では、南関東の広い地域に被害が出た。当時、東海道の宿場として栄えていた小田原宿および小田原城下は、地震と火事で九〇〇人近い死者を出す壊滅的打撃を受け、幕末に至るまで地震前の人口に達していない。房総半島では、地震と津波で死者六〇〇〇人以上を出している。江戸でも死者が出たが、詳細は不明である。この地震で崩れた江戸城の石垣は、翌年になって、大名手伝普請で修復された。

宝永地震では、マグニチュード八.四という巨大地震によって発生した津波が、太平洋沿岸を襲った。被害の集中した土佐では、死者が一八四〇人以上、紀伊半島の尾鷲(おわせ)でも一〇〇〇人以上、全体で五〇〇〇人以上の犠牲者を出した。津波によって流失・地割れ・液状化などの被害を受けた田畑は、一四万石にも及んだ。

宝永の富士山の噴火による降灰は、関東平野南部の広い範囲に、深刻な被害をもたらした。幕府は、領地替えなどによる一時的な救済策を施した。また、救済資金の捻出と称して、諸国に一〇〇石につき二両の高役金を課し、四九万両を徴収した。しかし、実際に救済に使われたのは、このうちの一部で、大半は逼迫する幕府財政の補填にまわされた。

幕末に相次ぐ地震と津波

安政の大地震

安政元年の東海・南海地震では、一一月四日に東海地震が、その三二時間後に南海地震が発生した。このため、古文書での被害記録は識別しにくいといわれているが、マグニチュード八.四の地震による津波で、駿河湾以西の太平洋沿岸の倒壊家屋や汐入田畑は広範囲に及び、死者三〇〇〇人以上と推定されている。この津波で、ペリーに次いで開国を迫るロシアのプチャーチン率いる軍艦が、下田で遭難した。下田町では、全戸数八七一軒のうち、八四〇軒が津波によって流失、死者九九人が出た。

こうしたなかでも、川路聖謨(かわじとしあきら)らの幕府首脳陣による外交交渉が、津波の被害をまぬかれた寺を拠点に、粛々と続けられた。遭難したロシア軍艦にかわって、日本人の船大工らの手によってつくられた戸田号が、四か月後にロシアに帰還した。

安政二年一〇月二日に、江戸地震が発生。海岸防備策に主力が注がれていたこの時期、地震の復興は遅れ、江戸城の石垣が各所で崩れても、大名を動員した普請を実施することができなかった。それでも諸藩の江戸屋敷復旧のため、多くの物資・金銭・労働力が江戸に集中したため、一時的な震災景気が起きた。江戸の富商たちも積極的に施行を行ない、江戸の復興に努めた。江戸・大坂・京都などの幕府の直轄地で頻発する火災などでは、富裕な町人たちによる力の復興策が講じられた。しかし、地方で発生する大災害では、こうした自力復興は困難だったため、幕府から復興資金を借用したり、幕府が諸大名に命じる手伝普請によって、河川などの災害復旧が図られる場合も少なくなかった。

飢饉と社会の対応力

天保の飢饉

江戸時代には、凶作による大飢饉が数回発生し、多くの餓死者を出した。寛永一八~二〇年(一六四一~四三)の飢饉では、九州の諸藩で原因不明の牛の疫病が多発し、続く凶作では、耕作を放棄した農民が、他領に逃げ込むという事態が頻発した。都市では、餓死者を片付ける職分として非人の役が固定化した。

これより一世紀弱を経て、幕藩体制も安定しかけた享保一七~一九年(一七三二~三四)にも、飢饉が発生する。西日本で発生した蝗害によるこの飢饉では、西国二七藩で損毛率八三%、飢人二六五万人、餓死者一万二〇〇〇人を出した。江戸では米を買い占めたとして、米商人の高間伝兵衛が打ちこわしにあった。さらに、半世紀後の天明三~四年(一七八三~八四)の飢饉では、天候不順による不作に加え、天明三年の浅間山の噴火による噴煙が冷夏をもたらしたとされるが、気象学的には、噴火の直接的影響説は否定されている。

この飢饉をきっかけに、全国的な広がりを見せた打ちこわしや百姓一揆が攻撃の対象としたのは、主として不正をはたらき米価をつり上げたとされる米穀商人であった。江戸で起きた打ちこわしは、政権交代をもたらし、田沼政権にかわって老中職についた松平定信は、飢饉対策を含めた都市貧困層対策として、町人による町入用金の七分を積み立てる町会所を創設した。

天保四~七年(一八三三~三六)の飢饉では、大坂で貧民救済を直訴、挙兵した「大塩平八郎の乱」が起きた。江戸でこうした騒動が発生しなかったのは、町会所による下層民の救済が実効性をもったからだといわれている。飢饉は、冷害や蝗害などが原因とはなるものの、その後に起こる打ちこわしや百姓一揆を見ると、飢饉による食糧欠乏は、当時の社会では、天災ではなく人災ととらえられていたことがわかる。

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